5ちゃんねる ★スマホ版★ ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50  

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

【往生極楽】本願寺と一向一揆を語るV【無間地獄】

1 :無名武将@お腹せっぷく:2005/12/09(金) 19:06:55
「進者往生極楽 退者無間地獄」の旗の下、長享2年(1488)に富樫氏を打倒して
加賀国に真宗王国を樹立。
さらに元亀〜天正年間には織田信長と激しい抗争を繰り広げるなど、100年余りに
わたって戦国動乱の主役であり続けた本願寺と一向一揆を語るスレの第3弾です。
なお、時代対象は浄土真宗中興の祖・蓮如から、東西本願寺分裂に至った教如・
准如までにしたいと思います。

●過去スレ●
【戦国】 本願寺家 【一向宗】
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1078566176/
【厭離穢土】本願寺と一向一揆を語るU【欣求浄土】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1102113464/

622 :無名武将@お腹せっぷく:2006/11/21(火) 18:33:33
>>619
出てきませんね、残念ながら。

623 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/11/21(火) 21:22:59
>>622
ありがとう。
出てきたら話も膨らませられそうなもんなのにね。残念です。

624 :無名武将@お腹せっぷく:2006/11/26(日) 19:36:25
必見です。

『尻啖え孫市』(1969年/大映京都)
出演:中村錦之助/中村賀津夫/勝新太郎/栗原小巻

625 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/02(土) 02:54:14
>>624
本郷功次郎がお坊さんの役をやってたね。

626 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/14(木) 00:50:10
>>624
錦之助のあの甲高い声がどうも・・・・

627 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/18(月) 04:57:19
俺は『戦国自衛隊』の光佐(成田三樹夫)が好きだな。
いかにも胡散臭そうで。

628 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/18(月) 13:16:26
成田三樹夫=今川義元
なんの大河だったかな?

629 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/18(月) 14:41:13
いへやす

630 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/21(木) 11:25:02
東と西と、どっちが本流なの?

631 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/21(木) 11:39:17
お西

632 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/21(木) 11:48:22
浄土真宗本願寺派、来夏参院選で民主党支持表明
ttp://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/senkyo/chihou/archive/news/2006/11/08/20061108ddlk35010527000c.html
ttp://www.dpj.or.jp/news/dpjnews.cgi?indication=dp&num=9210

633 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/21(木) 12:33:01
よりにもよって民主党か・・・
創価学会に対抗するためなんだろうけど、売国奴の片棒担ぐとは・・・
顕如聖人もあの世で嘆いておられるに違いないな・・・

634 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/21(木) 14:04:22
本願寺派って事務方と手打ちしたんじゃなかったっけ。

635 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/22(金) 09:45:42
民主党の左派(旧日本社会党)とは仲良しだからねぇ・・・

636 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/12/23(土) 00:44:04
ちょっと前は事務方=共産系だったはずなんだけど。

637 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/24(日) 04:44:10
宗教の本質を知らない人の意見でしょ

638 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/25(月) 02:41:17
>>637
いかにもアンタが知ってそうな感じなので敢えて聞こう。
宗教の本質とは?

639 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/26(火) 01:49:55
>>638
救われたいと願う心

>>633
宗教に国境なんて関係ないよ
国益とか売国奴とか、馬鹿でしょ

640 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/26(火) 23:42:36
>>639
そうですね。国境は関係ありません。
ですから未だに世界同時革命を夢見る集団であり続けるw

641 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/28(木) 13:58:51
>>640
極左宗教団体(もはや宗教ではない?)だもんな、今の本願寺なんて。

642 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/28(木) 19:57:19
つーか・・・現代の話はどうでもいいんだが。

643 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/29(金) 04:15:28
>>641
宗教の概念てみんな知ってるようで知らないんだよね

ちなみに広義の宗教は、俺たち普通の会話の中でそれなりの英知や道理を以て誰かに「教え、伝え」たりする行為も宗教だったりする
例えば金曜夜にフジテレビでやっている尼さんの説法や細木数子の説教は宗教と解釈できる

神様仏様は存在しなくても宗教は成り立つ
勉強するに足るものあっての宗教だよ


あとね、当時の本願寺だって今で言う左に決まってるだろうに
領地は信者相応、身の丈に合わないところまでも侵攻したりしないだろうに
大名にとって一向一揆が内政問題という理由もそこにある



>>642
申し訳ない

644 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/29(金) 06:01:47
>>643
>英知や道理

結局、それは人間業の域を出ないんだね、これが。
それを仏教的に言えば方便というわけ。
究極的には、「真如」というのはいかなる宗教の違いを超えるわけだけど、
人間の英知や道理を越えたところに「真如」が存在する。
「真如」に触れた者が、その宗教的体験や境界を言葉に起こした(方便)ところから
宗教としての違いが起こっているわけ。
じゃ、言葉にされる前の段階で違いがあったのかと言えば、
「真如」とは「違いなど問題にならない境界」のこと。
その意味では、英知や道理というのはそういう意味では方便の1つとも言えるね。
方便は時に人間によって私物化され、専有化されていく。
結果、方便の違いが諍い事の道具として用いられていくわけね。
宗教を土台にした戦争というのがそれ。
でも、それが宗教そのものの罪かといえば、方便を私物化し、専有化しようとしてしまう
人間の問題なのだろうけど。

645 : ◆QqQquqqauQ :2006/12/29(金) 07:04:42
寂聴の法話は宗教の皮を被ったオルグだけどね。

646 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/30(土) 02:48:20
今こそ再びの法華一揆を!草加を蹴散らせ!

と、質問いいすか?
武田信玄はたしか、娘の一人を本願寺に嫁がせるみたいなことを言っているらしいし、
朝倉義景の娘と教如の婚約が成立していたりするが、結局教如は内室を迎えたのか?

647 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/31(日) 03:00:56
>>645
同意。

>>646
三条夫人(三条公頼女)の姉が細川晴元に、妹が顕如の内室になっているからね。
信玄と顕如は義兄弟ということに。
とはいえ、信玄自身は領内から一向宗を排しているでしょ。
北陸方面の一向宗勢力に接触して上杉方を牽制してはいるけど。

648 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/31(日) 03:04:15
>>646
本願寺=戦国大名というイメージを恐れてのことなのか知らないが、あまり語られない部分。
朝倉家が滅亡するまで輿入れは行われなかったようだけどね。
でも、朝倉家滅亡に際して門徒が姫を背負って本願寺まで送り届けたという話はある。

649 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/31(日) 04:45:17
>>648
朝倉氏が滅亡する迄、婚約のまま(といっても和睦から僅か2年で朝倉は滅亡したが)であり、
朝倉氏滅亡直後に大坂の本願寺に送り届けられたのは事実。
但し、この姫の消息については不明な点が多く、輿入れ(天正元年)して教如との間に一女を
もうけたことまでは分かっているが、大坂退去の際(天正8年)に離縁されたとも言われている。
なお、一女の消息も不明。

650 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/31(日) 22:39:20
願泉寺 絹本著色 観如上人画像
http://www.city.kaizuka.lg.jp/shakaikyoiku/bun/shitei15/s0006.jpg
東本願寺第12世第2子
慶長16年(1611)に15歳で没した東本願寺教如の第2子の画像。
裏書によって慶長18年7月13日に教如が貝恷專烽フ卜半に対して下付したものであることがわかる。
観如自身は東本願寺を継職することなく没したため、画像を製作・下付されている事例は非常に少なく、
全国でも数点しか確認されていない。このような画像を受けた寺院は、特別なものと考えられており、
教如がこの画像を卜半に下付したことで、東本願寺教団に取り込みたいとする強い意図を読み取ること
ができる。なお上畳の一部に剥落がみられるものの、後世の補彩は認められない。

651 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/01(月) 02:02:03
教如の妻妾とされる女性は4人。

三位殿(朝倉義景女)
久我通堅女
教寿院(新川玄要女)
妙玄院(出自不明)

の4人。
三位殿は>>649の言うように大坂退去の頃、離縁されたようだが、
久我氏も教如が鷺森から泉州貝塚に移った後、離縁されたらしい。
教寿院の生家・新川家は貝塚の有力者で、願泉寺とも関係が深く、
貝塚にて教如に給仕した女性という。
唯一の側室であった妙玄院の出自は不明だが、教寿院の出産の際に
乳母を務めたのが縁で教如の側室になったと言われている。
なお、第十三世・宣如の生母は妙玄院。

652 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/01(月) 05:36:34
で、子はどれだけいたの?

653 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/01(月) 11:33:23
>>652
三位殿
  女子(消息不明)

久我氏
  実子無し

教寿院
  女子(早世)
  女子(花山院忠長室)
  女子(織田長頼室、後に越前本瑞寺室)
  尊如(早世)
  女子(姫路本徳寺室)
  女子(加賀専光寺室)
  観如(早世)
  女子(尾張興善寺室)
  女子(大和教行寺室)

妙玄院
  女子(越後浄興寺室)
  宣如(本願寺十三世)
  女子(越後本誓寺室)

ということで、3男10女がいたとされている。

654 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/01(月) 19:58:40
織田 長頼(おだ ながより)
天正9年(1581)〜元和6年(1620) 官位(大坂の陣時点) 侍従

[御家再興の野望]
諱は頼長ともいわれる。
通称・左門。織田長益の次男。淀殿の従兄弟にあたる。豊臣家に仕える。
慶長12年(1607)猪熊教利事件に連座して浪人。方広寺鐘銘事件以前に前田家に援助を求めに
行ったといい、隠居の利長に応対され「自分の(隠居領22万石からの)手勢なら出せるが…」と返事
を貰ったが、既に病にあった利長は同19年(1614)の5月に死去した(自殺説もある)。
その後、両家の対立が決定的になると父の「自分に構わず家康の許へ参れ」の勧めを「二君に仕えず」
と断って剃髪。「雲生寺」と号するが、結局我慢できず法衣を纏ったまま大坂に入城。その上に甲冑を
着けて主戦派の一人として重きをなして1万人を指揮して遊軍になった。しかし、入城にはある一つの
目的があったらしく、片桐且元の駿府行きを狙いに秀頼を追い出した後、従兄弟の織田信雄を大将に
担いで織田家再興を企てていたという風聞もあったという。

[クセ者]
冬の陣では二ノ丸玉造口・惣構谷町口を守備。また城外北方に出撃して十三の渡しを守るが、
11月7日に有馬豊氏が来襲すると戦わずして撤退。谷町口の攻防戦でも病と称して兵を指揮しなかった。
遊女も侍らせていたらしい。一方では遊女を赤備えに武装させ、大勢の番兵を率いて城中を巡視して眠っ
ている者を斬り捨てたというが、結局自身の怠慢ぶりが味方の戦意を殺ぎ和議の一因を作っている。
夏の陣直前に「信長の甥」であることを理由に全軍の指揮権を要求したが、諸将が納得せず、怒って京都
に隠棲。病と称して戦いに参加しなかった。そのまま同地で元和6年(1620)死去。見かけはかぶいてい
たが、内は誠意ある人物だったという。

655 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/01(月) 20:00:55
貴様、馬鹿だな。

蒼天考を嫁、虫ケラ。。。

656 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/01(月) 22:58:48
>>653
けっこうやることやってんだw

657 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/02(火) 00:56:01
確かに資料が少ないですね・・・。

 本展では、平成15年度貝市新指定文化財である願泉寺所蔵の本願寺歴代門主
 画像23組26幅を展示紹介しました。
 (略)
 草野顕之(大谷大学教授)氏に「東本願寺と願泉寺」と題してご講演いただきました。
 草野氏の講演では、東本願寺と願泉寺の関係を大谷大学所蔵の初公開史料など
 にもとづいてお話しいただきました。願泉寺初代卜半斎了珍(ぼくはんさいりょうちん)の
 妻 新川祐西(にいがわゆうさい)の姪にあたる教寿院如祐(きょうじゅいんにょゆう)が東本
 願寺第十二代教如(きょうにょ)に嫁いでいるという深い関係にあるにもかかわらず願
 泉寺との関係を示す東本願寺側の史料が少ないことなど、江戸時代の願泉寺や卜
 半家の性格を考える上で興味深い点をご指摘いただきました。

658 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/02(火) 01:27:35
>>653
花山院家の19代・定凞の継室が朝倉義景女であったとする記録がありますね。
定凞と義景女との間に生まれた定好が、異母兄・忠長の跡を継いで21代となっています。
教如との離縁後、花山院定凞の継室となったのでしょう。

なお、忠長は猪熊事件で流罪になりますが、その内室は教如の女(教寿院の所生?)で、
定逸(定凞養子、庶流・野宮家祖)や後に天海僧正の弟子となる公海を産んでいます。

659 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/02(火) 19:01:59
朝倉義景の子女というのは、

女子(教如室、花山院定凞後室).…生母・細川晴元女
阿君丸(早世)………………………生母・鞍谷嗣知女
女子(出家)…………………………生母・鞍谷嗣知女、長泉寺にて宋栄と号する。
女子(勝興寺顕幸室)………………生母・鞍谷嗣知女
愛王丸(早世)………………………生母・斎藤兵部女

ということでいいのかな?

660 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/02(火) 23:26:19
>>659
>女子(教如室、花山院定凞後室).…生母・細川晴元女

細川家の血脈ゆえですかね。

661 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/02(火) 23:46:29
本を糺せば、顕如室の如春尼は三条公頼の娘。
細川晴元室も三条公頼の娘。
如春尼は義兄・実姉の養女となり、後に六角定頼の養女として顕如の下に嫁いでいる。

一方、朝倉義景室も晴元女であるから、如春尼と義景室は一時的に、名目的に義理の
姉妹だったことになる。
それだけに義景女の輿入れには如春尼の存在が不可欠だったとも言えるだろうし、後に
教如が義景女を離縁した後も、三条家、細川家に連なるコネクションで花山院家に斡旋
したのかも知れない。
そう考えると話の辻褄は合うのだが。

662 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/01/02(火) 23:49:53
さらに武田信玄も絡みますよっと。

663 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/03(水) 00:59:49
>>662
なるほど。
どのように絡んでくるのでしょうかね?

664 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/01/03(水) 01:06:36
いや姉婿だしさ。

665 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/03(水) 06:06:26
う〜ん・・・
朝倉の姫君が本願寺に輿入れする段階では、信玄も三条夫人も既にこの世の人ではなかったしねぇ。
三条夫人の血を引いている子女で存命だったのは海野信親と見性院くらいのものか。
といって、本願寺とはほとんど関係ないけどね。

666 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/04(木) 13:26:38
>>661
本願寺自体がお公家さんになりたくて一生懸命プッシュした歴史があるからね。
あの蓮如をして果たせず、顕如の時代にようやくその努力が実ると。

667 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/05(金) 03:33:04
>>662
絡んでないじゃん・・・

668 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/07(日) 22:17:50
>>666
日野氏の傍系だっけ?親鸞さんって。

669 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/10(水) 18:34:13
Yes

670 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/11(木) 02:11:27
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hongan_k.html
  本願寺
  ---------------------------------------------------------------------------
  ●九条下り藤
  ●藤原北家日野氏流
  (中略)
  ●教祖、親鸞の生涯

  浄土真宗の開祖親鸞は、承安三年(1173)、下級公家日野有範の子に生まれたと伝えられている。
  治承五年(1181)、九歳のとき青蓮院の慈円について出家、比叡山にのぼり、横川常行三昧堂の
  堂僧として二十年間学行につとめた。しかし、求める教えには出会えず、比叡山そのものの俗化に
  も絶望をいだくようになった。比叡山を下った親鸞は、建仁元年(1201)法然の門にはいり、専修念
  仏の人となった。

とありますね。
日野家の本流は有範の兄・実光。
後に親鸞の娘・覚信尼が、同族の若狭守範綱(有範弟)の子・広綱と結婚して覚恵を生んでいますから、
覚恵は傍系ながら父系、母系ともに日野家の血筋ということに。
なお、覚恵の子・覚如が親鸞の廟(大谷廟堂)を専修寺、後に本願寺と発展させています。
現在の門首・大谷暢顕氏はその末裔。

671 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/11(木) 03:21:38
>>670
ありがd。
でも、そのサイトにある

>●蓮如の誤算と苦悩
>
>本願寺教団は、蓮如の時代に一大飛躍をとげ、大教団に発展した。それは、蓮如の布教の
>的確さによるものとはいえ、当時、政治・経済的に成長する時期を迎えていた庶民が、自分
>達の行動の思想的拠り所として、真宗を選んだことが教団発展の要因となった。
>次第に拡大していった本願寺教団は、蓮如の思いをよそに、蓮如を頂点としてその下に一家
>衆寺院、その下に大坊主分や寺院道場がつらなり、門徒はその底辺にあった。いいかえれ
>ば蓮如の存在を神格化し、封建主義形態を見せるようになったのである。吉崎に集まる門徒
>は蓮如を生仏として拝み、それを蓮如が否定すればするほど、蓮如のカリスマ性は強められ
>ていった。
>門徒たちは「われは信心を得たり」といって往来を闊歩するようになり、武家を領主にして苛酷
>な支配を受けるより、坊主を領主としてわがままをいった方がよいと考えるようになり、それが
>一揆へと発展していったのである。それは、革命というものではなく、単純な奪権闘争であった。
>肥大化した本願寺教団は、すでに蓮如をもってしても制御不能状態となり、ついに蓮如は北陸
>吉崎の地を去ることになったのである。

はどう考えるべきなのかな?

161 KB
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

★スマホ版★ 掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

read.cgi ver 05.04.02 2018/11/22 Walang Kapalit ★
FOX ★ DSO(Dynamic Shared Object)