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【上杉】50人で上洛【謙信】その1

1 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 03:05:44 ID:9DL22335
何しに行ったのだ。
松永を討つとか言ったらしい。


2 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 03:20:27 ID:hKW6akbl
( ´゚ω゚` )

3 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 04:46:30 ID:zWBmJ2y9
>>1
国元に戻って軍勢を整えて上洛し松永を討つ、て意味じゃね?

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 05:36:36 ID:R79pthVd
武田信玄は2万5000人の軍勢をもってしても上洛できなかった。
対する上杉謙信はたった50人で上洛し、将軍に拝謁した。

謙信>>>>>>>>>>>>>>>信玄

5 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 06:49:15 ID:0KlrnxN7
スレタイワロタ
でも上洛は果たしたから成功なんじゃね?w

6 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 10:36:55 ID:Wo5lTlXA
武田信玄、上杉謙信は滅法強いみたいだけど運が悪かったのかな?二人とも織田信長と戦った次の年に亡くなってるし

7 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 11:26:07 ID:JKi6w3Yi
当時、信玄とは敵対中だったんじゃなかったかな。
国を空けること自体すごいことだと、それも50人程度で
狙われたらしまいだったんじゃないのかな。
それほど危険をおかしてまで上洛した真意って何なんですか?


8 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 11:37:12 ID:JQKwVutn
大義名分を得ることじゃないの?
謀反や離反が続出したことからわかる通り、謙信の支持基盤は弱かった
危険を冒してでもやらないと領国を纏めることができそうもなかったと
運が良い事に通り道の朝倉氏あたりとは対一向一揆という利害の一致があって口利きも楽だったし

9 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 11:40:59 ID:v9FQjBtx
その1って、スレが続くほど話題があるのか。

10 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 11:52:53 ID:i9v4EitF
そのころ信玄はせっせと海津城をこしらえていた

11 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 12:03:53 ID:wDPM8/79
50人ってマジ?1000人くらいじゃなかったの?

12 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 12:07:08 ID:YQztIRlG
千人でしょ。だって謙信は堺の街で町人殺して放火までしてるんだから
そんな狼藉、二桁の人間じゃできんでしょ。その程度だったら堺が雇った浪人衆にフクロにされてる

13 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 13:08:14 ID:JKi6w3Yi
このころの謙信の動員能力ってどれ程だったのでしょうか?
上洛が比較的容易だったとすれば五千人程度の人数でも
三好松永らを潰して畿内をおさえられたのでは?
信長と違い、謙信へなら合力する大名も多かったと思う。

14 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 13:43:58 ID:zWBmJ2y9
>>13
動員能力について、永禄4年(1561年)の川中島の戦いの時の上杉軍が13000だったと一般的には言われてるらしい(対して武田軍は20000)。最初の上洛の天文22年(1553年)とは若干年代がずれているのであまり参考にはならないかもしれないけど。


当時越後の一大名に過ぎない謙信に畿内の誰が力を貸すかは何とも言えないが、
上洛に際してこれまで仇敵だった一向宗とは本誓寺の超賢に仲介を依頼し和睦、為景の代にその一向一揆に連携して当たった朝倉氏に鷹を贈って友誼を求めた、とあるからその辺かと。
もっとも一向宗については越中と加賀の一向門徒に『通行を妨げないよう』説得した程度だろうからはたして石山の本願寺が合力したかどうか…

15 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 13:51:25 ID:54OF+2yE
官位、官職貰いに行ったんだよ。
簡単に言うと、敦賀、近江の商人との交渉と公家に金ばらまきに行った。

16 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 14:12:42 ID:zWBmJ2y9
>>15
従五位下弾正少弼に叙任したのは天文21年(1552年)の4月か5月で、翌天文22年の最初の上洛はその御礼言上のため。

その弾正少弼をを得るために朝廷に剣、黄金、巻絹を、将軍足利義輝に太刀、馬、大鷹、青銅3000疋を、奏請してくれた大覚寺義俊に青銅1000疋をと少なからぬ金品をばらまいたらしい。
戦乱続きで地方からの収入の途絶えた朝廷や幕府はこういった所得で潤うのですね。

17 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 14:28:22 ID:s+JBrjSj
「上杉家年譜」によれば、
天文22年の上洛が2000人(船で敦賀経由)
永禄2年の上洛は5000人(陸路・宿営地近江坂本)だ、覚えとけ。
50人とか、どこから引っ張って来たん???


18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 14:53:54 ID:52y8AXdd
妄想だよ。妄想の何が悪いのさヽ(`Д´)ノプンスカ

19 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 15:34:33 ID:JKi6w3Yi
信長は最初の上洛は5人くらいだったんじゃないか。
かえって5人くらいの方が上洛しやすかったかも。

20 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 16:02:59 ID:XOQNg19r
>>19
少なすぎで逆に危ない

21 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 16:36:04 ID:QVaB71EF
>>19
それ、本当なの?
殆ど、大学生の旅行レベルだな…

22 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 18:04:53 ID:s+JBrjSj
信長の最初の上洛(永禄2年)は80人(信長公記)で、美濃斎藤の手勢と揉め事になってる。

23 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 21:23:01 ID:jaFDuI7K
>>21
信長の場合隠密行動だから
謙信は政治的目的もあったから軍隊連れてったろ

24 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 21:24:31 ID:zWBmJ2y9
確かに50人じゃあ朝廷幕府に渡す進物も運べないな

25 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 23:10:03 ID:DV0ZQ/5t
京を保護下に置くための上洛と、単に使節としての上洛を一緒にしてはいかん。

26 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/09(土) 16:29:53 ID:QPc27xBZ
町人虐殺して放火した謙信といい、斎藤氏の刺客の前にわざわざいって単身で凄んで追い払った信長といい……
足利義輝と相性の良さそうな大名って血の気が多いなw

27 :中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y :2006/12/09(土) 17:00:50 ID:fkIVkC6z
>>22
永禄二年は信長と義龍がニアミスしたあと、信長と入れ代わりに景虎が上洛
今度は義龍と景虎がニアミス。この時期に期せずして三大名が京都にいたわけだな

28 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/10(日) 00:01:22 ID:ej7KLjaM
変な質問して悪いんですが、
>>25さんの言われる使節の上洛は簡単だと聞こえるのですが
>>17さんの2000と5000という人数は相当多いと思うのですが

上記のお二人の指摘から考えると
使節上洛であれば2000〜5000人の上洛は簡単ととれますが
それだけの人数が京に現れれば松永三好と衝突したと考えられなくも無く
景虎にその気があれば合戦できたと思われます。
ちなみに八尋氏著の上杉謙信では上洛は何百人レベル。
上杉の常時戦闘員は5000人レベルと言われています。
上洛の折、将軍義輝に松永三好を討とうかと進言したが
何百という人数では現実味が無く、仮に5000でも連れてきていれば
討てと命じただろうと書かれてました。
私も具体的人数としては何百レベルが妥当で
この人数なら使節団としても考えられますが、
どうなんでしょう?


29 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/10(日) 11:16:16 ID:vQsJD2z5
信玄は本願寺に詣でたりしてるから、意外と旅行気分だったのかも
……ってことは堺での殺人放火は修学旅行ヤンキーの暴発みてーなもんかw

30 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/12(火) 12:52:31 ID:uZdO7AiT
酒と男に溺れ、あげくに病気になったらしい。

31 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/14(木) 13:42:43 ID:tGk02a3M
信玄は上洛してない、謙信だ
だいたい町人殺戮と放火なんてことを他国でやるような人間が他にいるか?

32 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/15(金) 13:31:06 ID:JipChv1N
謙信って基地外?

33 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/15(金) 13:36:19 ID:44h10yK5
>>32
ある意味基地外。常人では理解できないことをやってのける。そしてそれが天才と言われる所以でもある。

34 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/15(金) 13:52:04 ID:3p/P7bHR
当時下手な大名より力持ってた堺で無礼討ちだとか言って大暴れするんだから
度胸だけは天下一品だな

35 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/16(土) 14:45:57 ID:vuOMVOSd
京では松永の家臣も無礼打ちにしたとか?
基地外に刃物
殺人鬼ですな。

36 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/16(土) 15:23:52 ID:tgGbiLzi
謙信の坂本の宿舎に松永弾正が挨拶に来たんだぞ。
そもそも義輝と三好が和睦中だし。

37 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/16(土) 15:36:11 ID:0n0LYw9S
久秀は謙信にはビビッてた。

38 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/16(土) 15:53:46 ID:Cp401M5M
三好松永ぶっ殺すつもりで上洛したんだろ

39 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/16(土) 16:17:40 ID:/fJUVlS1
そうそう足利将軍をないがしろにして京でやりたい放題してた輩を成敗するために手勢率いてったんだよ

屈強な越後兵の中でも選び抜かれた精鋭を引き連れてな。チンピラな三好松永勢は引っ込んでるしかなかったと。北条みたいにw

40 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/16(土) 22:30:45 ID:tgGbiLzi
「上杉文書」「上杉年譜」「謙信公御書集」などの史料から引用。
永禄2年4月3日、長尾藤景、本庄実乃、直江実綱ら重臣、兵5000余を率いて越後春日山城を出発。
越中で椎名氏が一行を歓待、加賀では一向宗徒が案内役、越前では朝倉義景が用意した館に宿泊。
4月20日、近江に入り、六角氏の出迎えで坂本に宿舎を定める。5000の兵は近江の堅田・十津・平野・大野に分宿。
翌21日、将軍義輝から入洛を促される。
4月27日に入洛し、義輝に拝謁。黄金30枚、太刀と馬を献上。義輝生母慶寿院に
蝋燭500挺、綿300把、白銀1000両、ほか。公卿衆にも将軍に準じた献上物。
禁裏に伺候し、天文22年の上洛のさいに下賜された「住国ならびに隣国治罰の綸旨」
を確認してもらう。義輝からは、関東管領職推認の裏付けを得る。
ほかに、毛氈鞍覆い、白傘、網代輿、書状の裏書御免など、いわゆる長尾七免許。
堺、奈良などを遊興。再度入洛し、義輝から「鉄砲ならびに火薬調合の書」を下賜される。

>堺での殺人放火>>29
これは史料には見えない。脳内か??



41 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/17(日) 20:15:19 ID:J00GPQE8
でも義輝が暗殺された時とか、義昭が上洛を求めたりとか将軍家が一番大変な時はスルーしてるよな
それどころか義昭と敵対した信長と組んでるし
やっぱり自己の利益のための上洛したんでしょ。でないと一貫性がなさすぎる

42 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/17(日) 21:22:23 ID:3CmhDiQ/
AB型の人間だから

43 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/17(日) 22:29:28 ID:kJvjG840
>義昭と敵対した信長と組んでるし

無知乙ッ! そもそも義昭を将軍職に奉じたのが信長と謙信(永禄9年、義昭御内書)
謙信が昵懇にしていた近衛前久が、義輝(義弟)を殺した松永久秀を嫌っていたことから、
松永と親しくなった義昭の再三の上洛要請を無視した史実はあるが。

>義輝が暗殺された時

永禄8年の願文には「上洛を遂げ、三好、松永のかうべ(首級)をはね」
という記述があるね。北条との合戦で、上洛には漕ぎ着けなかったわけだが。

44 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/18(月) 14:18:16 ID:fqDzAGaO
>>43
槙島城に義昭が篭って公然と戦闘状態になった後も信長と仲良ししてたじゃん
願文出しても要するに何もしなかったわけでしょ。「武田倒してから北条と和睦してやります」なんて妄想こいてるのは一種の自己正当化じゃないの?結局我が身が大事だったわけで

45 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/18(月) 15:44:34 ID:u5saJOKG
謙信だって当たり前の戦国武将
多少奇矯なところがあるのを後世は面白がってるが
実際には戦にも負けてるし奴隷売買だってやるし、利益のためなら騙まし討ちや違約も辞さない
崩壊した将軍家に義理立てして領国を放置するような動きを期待するほうがどうかしている

46 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/19(火) 00:34:10 ID:3TCmBxzV
>>39
(゚Д゚)ハァ?

後北条は、篭城戦の後、兵糧切れで撤退する上杉軍・武田軍に追撃戦を仕掛けてるだろーが。

自国を荒らした奴を、タダで帰すか、ボケ。

47 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/19(火) 01:02:57 ID:ehEz9auF
まともに迎撃できないともいえる
愚かな判断ではないが

48 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/19(火) 01:43:29 ID:6UINXtu/
北条って3万で唐沢山城囲んだ時、わずか数十騎で救援に来た謙信を
ビビッて見てただけなんだろ。
そら軍勢同士なんかじゃ、まともに戦えんわなwww
その点信玄は数にたのみこそすれ、戦闘するだけえらい。

49 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/19(火) 11:14:08 ID:xLbyhlM7
モーゼの十戒状態

50 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/19(火) 19:58:15 ID:/POrMNwt
そんな創作を真に受けるのは謙信厨だけ……と、いいたいが少数の敵だと逆に敵と認識できず味方の使者だろ、とか思って通す例がありそうでこわいな

51 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/19(火) 21:24:47 ID:hezfzAuB
史実の上杉謙信が謙信厨の言うとおりの存在だったら、米軍にも勝てそうだなw

52 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/19(火) 22:27:38 ID:9rHK0/4w
そのエピソードも、切り結んで突破したわけじゃあないからなあ。

53 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/19(火) 23:17:12 ID:5JuSKb7m
謙信は軍神オーラで銃弾が当たらないからな

54 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/19(火) 23:56:22 ID:MSRo8NTq
武田以下の北条が何言ってんだwww

55 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/20(水) 09:52:26 ID:rLGyPYym
でも唐沢山城を攻める側に回ったら謙信は十回も敗退してるぜ

56 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/20(水) 11:35:49 ID:6ZdBVQkh
北条以下の上杉が何言ってんだwww

57 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/21(木) 15:02:33 ID:Xba8GlOp
同じように上洛したことがある信長と謙信ってワンマンタイプの大名として良く似てるな
成長の度合いは段違いだけど
美濃攻略前から信長と謙信は音信があって、初見の書簡は謙信のほうが先
敵対した期間より仲良くした期間のほうが圧倒的に長いし
武田が三方攻めにあった時には、信長の仲介を受け入れて謙信が兵を退くとか交渉も活発だったようだ

58 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/21(木) 17:16:21 ID:2m5IdNvB
普通の近攻遠交策で朝倉の防波堤が無くなってからは敵対パターンですね。

59 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/21(木) 17:46:43 ID:AR1dDP4y
>>57
いや、組織力に段違いの差が・・
ほとんど裏切りが発生しなかった織田に対して常に誰かが裏切ってた上杉
所詮上杉はお山の大将だからなー

60 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/21(木) 19:03:43 ID:M+jCLlNy
>ほとんど裏切りが発生しなかった織田に対して常に誰かが裏切ってた上杉

織田=荒木(失敗、滅亡)・松永(2度失敗し、滅亡)・明智(成功!)
上杉=北条(二度失敗するも許される)・本庄(許される)・新発田(失敗し滅亡)

ごらんのとおり、織田は組織内部から崩壊して、嫡流が滅亡したわけだがwwww

61 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/21(木) 22:16:31 ID:AR1dDP4y
>>60
上杉はそんなもんじゃない
つか松永は信長の家臣かどうかすら怪しい
そもそも織田と上杉じゃ家臣の数が全然違う
織田はあれだけの家臣がいながら裏切りは圧倒的に少なかった

62 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/21(木) 22:26:23 ID:M+jCLlNy
>>61

>そもそも織田と上杉じゃ家臣の数が全然違う

ほうほう、永禄4年関東注文幕で上杉に臣従したのは250将、総兵力11万5000人だぞ。
常備軍は天正3年軍役帖は越後だけで30将、5000余、天正6年軍役帖は北陸勢だけで80余将。
織田には同時代史料としての「軍役帖」も残ってないから不明だがな・・・・。

いずれにしても、織田嫡流(信長と信忠)が家臣に殺されたのは、間違いのない史実だね。
織田信長というバカ殿は、信頼していた家来に裏切られ、あっけなく殺されたのだ。
合掌・・・・・・。

63 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/21(木) 22:39:17 ID:Bl2uAB1n
織田と上杉じゃ(政治的にも)価値が違うだろ。

織田 = 天下、
上杉 = 一地方公務員(全盛期11万5000もいて何一つできなかった)

信長ならチャンスがあればどんなにリスクがあろうとも、その命を狙う価値はあったろう、
が、謙信にはその価値は無い。
むしろ面倒な仕事を受け継がなくてはならない分、馬鹿をみるだけ。


64 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/21(木) 22:43:14 ID:M+jCLlNy
織田 = 畿内政権を樹立するも、滅亡。
上杉 = 関東政権を志向するも、頓挫。

両者は北陸で激突した。

が、正しいだろうな。


65 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/21(木) 22:50:10 ID:AR1dDP4y
>>62
11万ってそれは関東管領に一時的についた勢力だろ
そんなん信長にしてみたら松永や浅井みたいなもんだ
家臣に入らんだろ

66 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/21(木) 22:57:06 ID:M+jCLlNy
AR1dDP4y君よ

君がどんなに苦労して調べても、織田の軍役帖はない。
すべてが太田牛一の曖昧な記録に過ぎんのだ。
陪臣も含めて挙げれば、武田や北条、佐竹、真田だって織田家臣団と同じような
面子と数が揃うぞ。牛一の曖昧な記述ですら論証出来ないことを、君が請け負うとでも言うのか?
バカ殿が荒木ら近臣に叛かれ、本能寺で明智に殺された史実は否定できんのだ。

67 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/21(木) 23:44:39 ID:5x+3Qszj
ちょ、11万の関東勢力を全部上杉の家臣とみなすなら、
裏切り率70%超えそうじゃんw

68 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/21(木) 23:55:19 ID:soWK8Xp5
蛇足だが、関東管領家としてみれば武田・北条も家臣なわけで

69 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/21(木) 23:58:43 ID:5x+3Qszj
武田はともかく北条は違うだろ。
管領ってなどこまで行っても将軍家の役職。

天皇からの官位で見れば関東を治めるのは北条家に他ならない。

70 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 00:01:35 ID:4WSaj7XQ
謙信と呂布ってどっちがつおいの?

71 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 01:05:47 ID:iwAT4w3C
上杉が11万5千の家臣団をもってたとすると
過半数を大きく超える家臣に寝返られてるわけだが。

72 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 04:01:46 ID:Vbwlecx7
>>70
彼ら二人の力量がどの程度なのかわかりやすく第二次大戦の戦力に当て嵌めてみると
謙信は一騎で真珠湾攻撃出来る
呂布は一騎で名将ロンメル率いるドイツアフリカ軍団とやり合える

73 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 08:45:03 ID:eps1q6z8
つまり、謙信の北条との同盟でそれまでの味方の関東諸侯を見捨てた件は
同時に大多数の家臣への裏切りってことか
でも江戸期から生まれた虚構の謙信と違って史実の人物は信用度が激低いから今更という気も……

74 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 11:00:06 ID:zhk7WpgF
分母が増えれば分子も増えるって問題じゃないの?
家臣が多くなればなるほど、反乱分子が紛れ込む可能性が増大する
まして信長にしろ謙信にしろ、当時の武家社会から見れば成り上がり層に属してるからな

75 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 12:37:03 ID:P6JYGwtx
>ほとんど裏切りが発生しなかった織田>>59

こいつの無知がくだらん論争の原因。
荒木村重や松永久秀を知らず、
信長を殺した明智光秀が家臣じゃないと思ってるらしい。

76 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 12:57:10 ID:C+rlBNzB
>>75
だから光秀ぐらいしか裏切ってねーだろ
光秀が裏切って信長が死んだから信長は家臣の統率ができなかった ではなく信長はあれだけの家臣達を持ちつつ荒木や光秀程度しか裏切っていない
信行が謀反した時は家臣の大部分が信行についたがあの時点ではまだ信長の家臣とは言い難い 信秀の家臣だった連中だ

77 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 18:04:46 ID:N2tXinsr
荒木や光秀程度って。

78 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 22:24:04 ID:a7QqNqyQ
過半数から裏切られた謙信よりマシってことだ。

79 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 22:32:26 ID:P6JYGwtx
ま、織田の組織が謀反に彩られていた史実は、こうだな。
いずれも「信長公記」(太田牛一著)

地鳴  交野へ松永取出仕候、追ひ払はるるの事

 三好義継が不意に非義を起こした。松永久秀・右衛門佐久通親子と語らい、
畠山昭高殿に対して槍を向けたのである。かれらは畠山殿の配下安見新七郎の居城交野城を囲み、
城の周りに付城を築いて山口六郎四郎・奥田三河の両名を大将とする兵三百を置いた。
これは松永久秀の指図によるものであった。

死働き  樋口夫婦御生害の事

 この頃、木芽峠には一向一揆に備えて織田方の砦が築かれ、樋口直房が入れ置かれていた。
しかしこの8月、いかなる理由によるものか樋口は突如として砦を出奔してしまい、
妻子を引き連れ甲賀へ退転しようとはかった。しかしその跡を羽柴秀吉の追手が追跡し、
道中で夫婦もろとも討ち果たした。二人の首は長島の陣所まで運ばれ、信長公の実検を受けた。

磯野逐電  磯野丹波・磯貝新右衛門の事

 2月3日、磯野員昌が上意に背き、処罰を怖れて逐電してしまった。
これを受けた信長公は、ただちに磯野旧領の高島一円を織田信澄へ与えた。
 また2月9日には吉野山中に蟄居していた磯貝新右衛門を土地の者が殺害し、首を安土へ進上してきた。
かれらには信長公より褒美として黄金が与えられた。このように信長公は、ひとたび憎しみを覚えた者には
必ずその報いを受けさせずにおかぬ御方であった。

人質哀歌  松永謀叛並に人質御成敗の事

 大坂を扼す天王寺の付城には、定番として松永久秀と子の久通が入れ置かれていた。
 ところが8月17日、父子は突如として叛逆し、天王寺砦を退去して大和国信貴山城へ籠ってしまった。
これに対し、信長公は松井友閑を遣わして「いかなる仔細によるものか。よく存念を申し聞かせるならば、
望むところを叶えよう」と問わせしめたが、すでに逆心した後のことであり、父子が釈明に現れることはなかった。


80 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 22:36:56 ID:P6JYGwtx
>>79のつづき

村重謀叛  荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

 10月21日、信長公のもとへ荒木村重が逆心を企てているとの報が各所よりもたらされた。
しかし信長公はこの報を疑い、村重方へ松井友閑・明智光秀・万見仙千代を遣わして
「いずれの不足ありや。存分を申せば、望みを与えよう」と問わせしめた。
すると村重は「野心など、少したりともありませぬ」と答えてきた。
信長公はこの返答に安堵し、人質として御生母を差し出すことを約束した上で、
「別儀なくば出仕すべし」と命じた。

 しかし村重は来なかった。彼はすでに謀叛を決していたのであった。
そもそも荒木村重は一僕の身にすぎぬ者であったが、先年公方様が信長公へ敵対したみぎりに
まっさきに信長公へ忠節を誓い、その功により摂津国の一職支配を任されるまでに出頭したものであった。
しかしそのような身にもかかわらず村重は身のほどを知らず厚遇を誇り、ついに別心を抱くまでに至ったのである。


 もはや村重の叛意は明らかであった。信長公は「この上は是非に及ばす」といって
安土に織田信孝・稲葉一鉄・不破光治・丸毛長照を残し、11月3日みずから出馬して
二条御新造へと着陣した。信長公はここでも明智光秀・羽柴秀吉・松井友閑らに再三説得を試みさせたが、
村重が応じることはなかった。

明智謀反 惟当日向守逆心を企て、右大臣信長公・中納言信忠公を滅ぼす
 本願寺および二条第が明智勢に攻められ、織田嫡流は滅亡のこと・・・・。

主従が裏切りと憎悪、虚しい殺戮と滅亡の歴史だなwww

81 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/23(土) 18:20:43 ID:aMeoVOt6
松永や荒木や明智は外様じゃまいか。
あれだけでかい勢力なんだから
その時の勢いでついたり離れたりするのは普通だと思う
包囲網が敷かれた状態で崩壊しないことのほうが凄いと思うが。

82 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/23(土) 23:05:47 ID:h7QsnEzZ
信長の場合、本貫地というべき尾張や美濃で裏切りは発生させなかった。
元亀の包囲網の時期ですら。
謙信の場合、本国越後で裏切り多発。

例えていうと、信長は属州ガリアでは反乱が起きたが本国ローマは問題なし。
謙信の場合は本国ローマで反乱。

83 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/24(日) 12:01:24 ID:eoroFKAS
信長死後、山岡一族なんかの小豪族は外様なのに光秀に徹底抗戦している
謙信に上洛時見出された河田長親は謙信死後も上杉家を離反しなかった
裏切った人間側の資質がむしろ問題だろうな
光秀にしろ荒木にしろ松永にしろ、一度ならず旧主筋を裏切って信長についた連中
謙信配下の特に揚北衆なんかは謀反の常習犯
誰が主君でも最後は裏切ったんじゃないの?

84 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/24(日) 12:23:20 ID:DOZM6BM1
結局フラフラする奴は最後までフラフラするってことかね。

85 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/24(日) 14:20:53 ID:R+aJK5Ig
信長家督相続時の林兄弟、柴田勝家、山口教継
謙信家督相続時の長尾政景
この辺りはどういう扱い?

あと、皆さん別所さんもたまには思い出してあげて下さい。

86 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/24(日) 14:29:27 ID:2nRZW6cG
>>85
それは親父の部下であって本人の部下じゃない

87 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/24(日) 18:22:58 ID:Cqy5C6Pb
信長と謙信ってわが道を行ってる独断専行タイプだよな
違いは信長が場合によっては寝技も辞さない合理性を備えていたのに対し、謙信は戦略においても行き当たりばったりというか対処療法から脱っせなかったこと

88 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/25(月) 13:35:58 ID:TsVM+jDu
仮に「上杉年譜」等の5000の人数で三好、松永の征伐に掛かったとしたら
討ち取れたか?また、周辺情勢はどうなっただろう?六角、浅井、朝倉は
どう動く?

89 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/25(月) 14:50:08 ID:si5P9KW0
さすがに5千じゃ無理でしょ。
補給路や退路も確保できるか怪しいのに。
袋叩きにあって終り。

90 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/25(月) 15:12:53 ID:K0hTWyfr
↓史実
本誓寺を通じて本願寺に通路(加賀)を保障されたうえで、朝倉・浅井が歓迎、
坂本の宿舎は六角が準備。で、義輝の和睦中の三好(松永)が挨拶に訪れる。
これじゃ、>>88のような仮説がむなしく感じられる。
しょせん、歴史にifはない。

91 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/25(月) 15:59:07 ID:2GLcBZiM
俺が知ってる限りでは三好は寡兵で勝利した合戦は2つある(江口合戦と教興寺合戦)
5000程度の兵で討ち取るなんて夢物語にも程がある

92 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/25(月) 16:17:04 ID:BnCVyZPH
三好はゲームとかじゃ強いザコあつかいだけど
実際は違うしな・・・

93 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/25(月) 16:22:45 ID:FfEFtXCG
せめて将軍をつれて帰ればよかったんじゃないかと思ったり。
関白ですら連れて帰れるんだし。

94 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/26(火) 11:38:16 ID:HRM0y5le
義輝が討てと言えば実行されただろう。
そのつもりで主力の5000を連れてきているのだし。
都周辺で大軍を展開させるのは難しく、
それこそ景虎の最も得意とする局地戦に各個撃破されるのがオチ。
錬磨された越後勢と京の地理も把握している景虎の用兵術の前に
三好、松永勢など物の数ではない。
現に一度義輝を襲った時に浅井勢3000に蹴散らされている。
三好?越後にいたら生きてもいけんwww

95 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/26(火) 12:46:59 ID:e3rUyAgH
>>94
>現に一度義輝を襲った時に浅井勢3000に蹴散らされている。
ソースは?浅井と一戦交えてたなんて初耳だが
況してや撃退されるというのも

96 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/26(火) 13:00:37 ID:FIb2S7V+
>>94
当時の三好は真面目に強いぞ

97 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/26(火) 14:40:16 ID:JS+mW8xn
一行の道中日記を読んでみたい。

98 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/26(火) 15:01:57 ID:FIb2S7V+
>>97
多分、今日はインネンつけてきた奴○○人もぶっ殺してやったぜーwww
みたいなのばっかだと思ふ

99 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/26(火) 15:11:50 ID:LWW4TYLa
謙信の義輝暗殺後の幕府への冷たい対応っぷりを見てると
義輝様ならともかく……という底意が見えてくる
個人の感情を戦略に優先させる癖がある謙信だし

100 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/26(火) 17:03:46 ID:7HapiGP0
 天文二十一年(1552)、長慶は足利義輝を京都に迎え細川氏綱を管領職とし幕政の実権を掌握した。
ここに約五十年にわたって続いた両細川氏の乱は終熄した。翌年、義輝が晴元を召し返そうとしたため、
これに怒った長慶は義輝を追放した。ついに、文字通りの下剋上によって、長慶は幕府を思いのままに
動かす権力者にのし上がったのである。
 その後、長慶は丹波八上城に波多野氏を攻め、さらに芥川城を包囲攻撃、芥川城を落したのち長慶は
芥川城を居城として摂津国人衆を勢力下に置くようになった。かくして、摂津を含む畿内は三好長慶の支配下となり、
長慶は三好氏の全盛時代を現出したのである。さらに弘治元年(1555)には東播磨を侵食し、
同三年には丹波を半ば征圧した。
 阿波を本国として畿内から丹波・播磨まで支配下においた長慶であったが、
その政権は安定しなかった。永禄元年(1558)、流浪の将軍義輝は六角義賢、晴元残党らの支援をえて
京都奪還の兵を挙げた。長慶はこれを迎撃したが、戦いは思うように展開せず、
ついに義輝を京都に迎え入れる結果となった。ここに幕府は復活し、長慶は相伴衆に列せられ、
三管四職に準じる待遇を与えられたが、京都から締め出されることになった。
京都支配をあきらめた長慶は大和・河内・和泉の領国化に専念するようになり、
戦国大名への途を歩み出した。
 永禄二年、長慶は畠山高政を援けて河内に出兵、高政に反する安見直政の拠る高屋城を落し、
ついで飯盛城を落すと高政を高屋城に入れた。ところが、高政が長慶を無視して直政を守護代に任じたため、
長慶と高政との対立となり、翌永禄三年、長慶は河内に出陣した。これに阿波の三好義賢も参加し、
高屋城・飯盛城を攻め落とすと河内を直轄領化した。こうして、長慶は芥川城から飯盛城に移り、
義賢を高屋城に入れて河内の支配を委ねた。長慶らが河内で戦っているとき、大和に侵攻した松永久秀は
たちまちのうちに大和を征圧して、大和も三好氏の支配下に入った。
 ところが、翌永禄四年、反三好勢力が団結して一斉に反撃に転じた。
六角義賢(承禎)と結んだ高政が長慶との間に戦端を開くと、長慶は一族や被官らの率いる阿波・淡路の兵を
岸和田に集結して畠山軍を迎撃した。戦いは畠山勢の有利に展開し、
両軍の対陣は翌五年に至った。


101 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/26(火) 20:36:05 ID:V1WARTPh
>>96
長慶健在時の三好なら普通に同数でも勝てそうだよな。

102 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/28(木) 10:36:34 ID:n2xhzJVN
雑魚は何匹集まっても 雑魚

103 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/28(木) 13:25:44 ID:TFu7mVlS
しかも謙信は三度も上洛してる
越後から三度も
凄い

104 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/28(木) 14:14:04 ID:TdEr1VxM
謙信の上洛旅行。お供は鬼小島。暇だったんで河田という小僧お持ち帰り

105 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/28(木) 15:18:05 ID:dFMXKBei
>>54
後北条には、
武田のように、
3000丁の鉄砲を装備した3倍近い兵がいる馬防柵に向かって突撃するようなバカは、おりません。w

106 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/28(木) 15:30:09 ID:6jFsulPm
自分の祖父の仇である一向衆の本山を堂々と尋ねる謙信
義の人らしいが、孝は無いのか?

107 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/28(木) 16:31:07 ID:iwwk+nMV
信仰心の厚い一向宗>>>>>>>>>>>>>>>仏敵許すまじ

108 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/28(木) 17:04:36 ID:n2xhzJVN
後北条なら籠城だもんなwww

109 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/29(金) 09:34:24 ID:VWo+WvWL
>>105
         \   ∩─ー、    ====
           \/ ● 、_ `ヽ   ======
           / \( ●  ● |つ
           |   X_入__ノ   ミ   そんな餌で俺様が釣られクマ――
            、 (_/   ノ /⌒l
            /\___ノ゙_/  /  =====
            〈         __ノ  ====
            \ \_    \
             \___)     \   ======   (´⌒
                \   ___ \__  (´⌒;;(´⌒;;
                  \___)___)(´;;⌒  (´⌒;;  ズザザザ

110 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/29(金) 15:47:33 ID:QYhH2Uyv
まぁ、寄せ集めとはいえ11万の軍勢相手に3万で野戦挑んだからそれこそ馬鹿だけどな
勝利したんだからいいじゃんか
生山合戦ではそれこそ野戦で北条は謙信を撃破してるわけだから、兵力が互角なら氏康あたりのほうが謙信より上だよ

111 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/29(金) 19:44:35 ID:k27cqYPV
その合戦も本当にあったのかどうか怪しいが

112 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/30(土) 00:23:48 ID:9FT0o2Uk
上で当時の三好相手に勝てるとかほざいてる奴らよりは・・・

113 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/30(土) 00:33:58 ID:ef+mTHWJ
三好>上杉>武田>北条

114 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/30(土) 00:42:02 ID:i9psqKsa
生野山合戦が無いと言えるなら、手取川合戦ぐらいの論拠の合戦も根拠を失う。

115 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/30(土) 15:38:39 ID:nl4pdY0N
もともと信長なんて存在しなかった
秀吉が自信の正当性を証明するために作り上げた架空の武将が織田信長
織田家は合議制だった
途中から信長を演じていたのは足利義昭
本能寺で死んだのも足利義昭
義昭として流されていったのが明智光秀(天海)
中国大返しはもちろん無かった

116 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/31(日) 08:28:49 ID:H/qDMAsi
そんな餌で俺がクマー(AA略

117 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/31(日) 16:54:34 ID:ncLxm9vI
>>111
感状が残ってるからあったんじゃないの?
書状だけなら例えば三増峠合戦では双方がオレ達の勝ちだと主張してるケースがあるけど
戦功証明書まで偽造してたら領国体制が成り立たない

118 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/04(木) 23:25:12 ID:OTkOuflT
50人で上洛はマジですよ。
「上杉年譜」等では5000人なんて人数になってますが
時期から推測すると5000も連れて行くと本国がほとんどカラになる計算になります。
天正3年の軍役帳でさえ武将36人、兵数5192人の記録があり、永禄年間になると
越後全土の軍役はさらに少ないと考えられる。
「上杉年譜」などは川中島の一騎打ちも謙信ではなく、荒川伊豆とされており、
大将の単独行動を恥じ、また一国の主の上洛が50人では少ないとして
後世に体裁着色された可能性が高い。
「続応仁後記」の戦中なれば供の者わずかに50余人というのが
有力と考える。
「上杉年譜」をまるまる信じてる人が多いのはちょっとガッカリです。

119 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/04(木) 23:37:58 ID:SBd3QtfQ
>天正3年の軍役帳でさえ武将36人、兵数5192人の記録があり、永禄年間になると
>越後全土の軍役はさらに少ないと考えられる。

永禄2年は250武将(11万5000)、天正6年は北陸だけで80武将(推定5万)なわけだが??

>「上杉年譜」などは川中島の一騎打ちも謙信ではなく、荒川伊豆とされており、

川中島合戦に関する「年譜」の記事は、江戸時代(元禄年間)なのだが??

>「続応仁後記」の戦中

天文22年(第一次上洛)、および永禄2年(第二次上洛)が>「続応仁後記」の戦中
と、どう重なるのか???

>「上杉年譜」をまるまる信じてる人が多いのはちょっとガッカリです。

上洛に関連した綸旨や御内書を裏付ける史料は、天文22年は2000人、永禄2年は
5000人を証明していると思うが?? 詳しくは近衛家文書、前嗣書簡。
原史料、読んだことねえんだろwwwバーカwww>>118


120 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 01:29:54 ID:QMcylfwQ
↑残念ながら史料の読解力と歴史認識の無い典型人です。
ついでに国語力も弱いイタイ人です。www

>永禄2年は250武将(11万5000)、天正6年は北陸だけで80武将(推定5万)
天正3年が上杉家の軍役が充実していた期間。↑ほど動員できたら誰も苦労しませんよ。

>川中島合戦に関する「年譜」の記事は、江戸時代(元禄年間)なのだが??
だからその可能性が高いと言っていますが・・

「続応仁後記」の戦中とは越後周辺の敵対勢力を指します。史料を読めていないのは
>>119

常識的に考えて5000人は多すぎ、↑のように上杉にそんなに動員能力があるなら
川中島にしても関東にも大軍を動員できたはず。11万5000って何?www
ゲームですか?








121 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 03:24:19 ID:+uxRooVE
上杉の輝かしい戦歴
・戦で信玄に大勝しながらも信濃を失うという前代未聞な成果を残す(実質領土を取られた謙信の負けw
・アホのように関東に侵攻し、味方は裏切り三昧。しかも土地取れず
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・気に入らない家臣の嫁を馬に紐でくくりつけ引きずり殺す。
・結局北条に関東のほとんどを奪われる。関東管領の権威を地の底にまで下げ、面目丸つぶれにさせる
・間違って味方の城を攻め、そのまま落とす。しかも城主を惨殺
・敵の支配地域に踊りこみ城攻め。結局抜けなくて惨めにトボトボ逃げ帰る。憂さ晴らしに強姦略奪を繰り返す
・無用にも味方の頭を殴って、離反される。
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・政治を顧みず、一向一揆を起こされまくり。鎮圧と虐殺にモタついてる間に他大名に勢力を伸ばされる
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・関東豪族を裏切って北条と同盟し嫌われる。その北条にも同盟破棄されるみじめっぷり
・醜い跡取り争いの御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったとお得意の捏造)
・己の愚かさから関ケ原の戦いを引き起こしてしまい、おまけに負け組へ。戦後領土を大きく減らされる
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される

【上杉家の特徴】
・武田に北信濃を奪われ、頼りにしてきた豪族を裏切った上杉は論外
・関東を散々荒らしまくりながら、結局土地を取れなかった上杉は論外
・一時の感情で味方に暴行し、離反された上杉は論外
・小学生でも見抜けるような捏造武勇伝ばかりの上杉は論外
・下野の小豪族佐野家の城を10度攻め、一度も落とせなかった上杉は論外
・関東豪族を裏切ってまで北条と同盟したのに、その後北条にも同盟破棄された上杉は論外
・家臣に反乱を起こされまくった統率力が無い上杉は論外
・後継者の事を何も考えず便所で死亡し、勝手に自滅した上杉は論外
・勢力的に明らかに格下の神保に苦戦しまくった上杉は論外
・織田家に嫉妬し、手取川の戦いを捏造した上杉は論外
・伊達家に対するコンプレックスで松川の戦いを捏造した上杉は論外
・自ら起こした関ヶ原で負け組みになった上杉は論外
・幕末、何も見せ場がなかった上杉は論外
・容姿がキモ過ぎる上杉は論外
 http://www.valley.ne.jp/~rinsenji/kenshin.jpg
・肖像画まで捏造した上杉は論外
・大量の基地外信者を生んでしまった上杉は論外

【vsスレ荒らし・上杉信者の特徴】
・根拠もなしに上杉謙信最強と言う
・歴史初心者に上杉家最強と吹き込む
・紛れも無い捏造の松川を事実と言い張る
・上杉を擁護するために平気で捏造をする
・自作自演での印象操作が得意
・たいして知識が無いのに、歴史に詳しいフリをする
・なぜか伊達家の話題を振ってくる
・突っ込んだ質問をされると即逃走
・人格攻撃、コピペが得意
・どこ行っても嫌われ者
・上杉は○○だからダメと言われる→そんなことは無い、とただ単に全否定するだけ
・一度書き込み出すと連続で書き込む(でも時間は絶対に被らない)

122 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 05:06:15 ID:65tJSB68
ID:+uxRooVE

↑こういう馬鹿の相手はしないように

123 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 08:49:12 ID:D1v+khKG
>>120 11万5000って何?www

永禄三年の関東幕注文(上杉文書所蔵)だろ。

永禄二年に上洛した時の朝廷・寺社への土産の量(史料現存)を
考えると、とても五十人程度で運べる分量とは思えないのだがな。


124 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 08:57:56 ID:2U6Oqu/r
上杉家の軍役帳(天正三年(1575)のみの人数だと正規の軍役衆だけなら、総動員しても五千五百五十三名が限界
通説でいわれる各合戦の動員力に到底及ばない
関東諸侯合わせて11万の大軍に到っては数ヶ月で瓦解してるし、北陸の諸勢力は例えば一揆衆は謙信や上杉家の指揮に従わずあくまでも本願寺からの指令で動いてたからせいぜい同盟者。動員力に含めるのは不適当
しかし臨時雇いの雑役役や足軽程度はいただろうから、正確な数字の把握は困難

125 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 10:49:56 ID:3kScDy3d
実際、50人というのも>>120の指摘もあるが少ないと思うが
5000人は確かに大杉だろ。中とって500人の新説が有力。


126 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 10:57:06 ID:3kScDy3d
>>123さんの指摘だったスマソ

127 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/06(土) 01:22:04 ID:1nzDNHfs
そもそも50人なんて、誰が何を根拠に言い出したんだ?
ほとんどそれらしい外交成果のない織田信長の第一次上洛(永禄2年)ですら
80人とされてる(信長公記)のに?

128 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/06(土) 01:38:51 ID:GnWQPV2o
80人もかわらん。
綸旨をもらいに行っただけだし、
ほとんど隠密裏だったんだろう。

129 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/06(土) 02:00:03 ID:TiwpwH/m
隠密裏に80人が動いたらさすがに目立ちすぎるのでは?

130 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/06(土) 02:08:10 ID:1nzDNHfs
謙信上洛50人の根拠は????
妄想なのか?? 派手に夜遊びまでしてる近衛前嗣の書状
や寺社の資料も残ってるのに???
50人って、内訳は誰々なのよ???

131 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/06(土) 11:57:43 ID:QhYLf3aG
>124
正規の軍役衆五千五百五十三名がそれぞれ荷物運びだの草履取りだの連れているし。
小荷駄の臨時雇いやら陣借りもおるしで


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