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■ 明応の政変 ■

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 20:05:06 ID://TJ1cji
明応の政変によって室町幕府が瓦解した事を戦国時代の始期とする説が現在、有力になっています。

日本史上重要な出来事なのに、何故か知名度が低い、細川政元の足利将軍廃立事件を語りましょう。

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 20:07:28 ID:Ugrr2300
教科書では完全に無視されている。

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 20:10:52 ID:/Uezaswn
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89

とりあえずwiki。
詳しく解説しているサイトはないかね。

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 21:17:25 ID:a0KCCpWG
教科書では完全に無視される事変の一つだね。
そのせいか大学入試には出ることが多い(京大入試などたまに出題される)から勉強しないとダメだが。

5 :朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :2006/09/05(火) 21:20:51 ID:ILOqugKY
足利茶々丸の討伐がこの政変と綿密に関わってるとみられてますね。

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 21:29:55 ID:Ugrr2300
同じ明応二年だからね。
中央の動乱に連動したものと見られているようだ。

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 21:41:41 ID:/Uezaswn

明応政変以後の、畿内の政治史区分
政元政権期 1493−1507
高国政権期 1508−1531
晴元政権期 1531−1550
三好・松永政権期 1550−1568

正確には、高国政権は義稙が将軍の前期と義晴が将軍の後期に分けた方が良いのかも。

8 :朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :2006/09/05(火) 22:17:19 ID:ILOqugKY
明応二年の政変で畿内を追われた前将軍義材について面白い記事があります。

  公方越中国正光寺ニ御座、近国皆以奉随了、能登守護畠山大夫参申、越前国朝倉参申、
  越後国上杉参申、加賀国守護トカセ参申、
                                                「雑事記」明応二年七月二十六日条

義材は当初、反政元派大同盟ともいえるこの北陸で復権の機会を伺ったようです。
それに対して政元は本願寺と連携して永正三年の北陸一向一揆(1503年)を引き起こして牽制します。
ちなみにこの時期の朝倉氏は三代貞景の代で、政変後は一貫して義材派として行動、
度々京都を伺った義材に対し、軍勢1500余を一年半に渡って逗留させたりしてたです。

9 :朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :2006/09/05(火) 22:21:34 ID:ILOqugKY
余談ですが永正三年の北陸一向一揆のとき、一向一揆20万対朝倉宗滴1万2000といわれる(ぉ、
かの有名な九頭竜川合戦があったわけです。

10 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/09/05(火) 22:26:26 ID:J3FdCZku
実際って10倍水増しくらいでよろしい?

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 22:40:33 ID:a0KCCpWG
20万と言われてるがやっぱ大げさなのかね

12 :朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :2006/09/05(火) 23:19:47 ID:ILOqugKY
史料における軍勢の数ほどあてにならないものはないっすね。
この永正三年の一向一揆の規模について史料を元に検証しようと思ったのですが、
打った長文消しちゃったのでやめます。

ただ富樫介が討たれた長享二年加賀一向一揆では、加越だけで20万と「蔭涼軒日録」にあります。
永正三年の一向一揆は、それよりはるかに大規模なものだったことから察すると、
20万じゃまだまだものたりないぜ的数だったことになります。

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/06(水) 02:14:15 ID:z3Z89Lge
魔法半将軍バロス

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/06(水) 21:20:04 ID:GgDz9B+/

実際、明応の政変までは、室町幕府は応仁の乱以前とほとんど変わらずに機能しているからな。

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 14:43:33 ID:0wDa9DoC
明応の政変が、非常に重大な事件であったのは認める
でも戦国時代=戦乱の時代でとらえると、応仁の乱からの方がしっくりくる
足利幕府は曲がりなりにもあるわけだし

個人的な考えなですけど

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 19:02:48 ID:MMugdFS/
何故教科書で取り上げられないのだろうか?
天皇関係の出来事でもないし。

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 15:29:15 ID:5ub3f8Gk
現行の教科書に何が載ってて何が載ってないか、知らないからなんともいえないけど、
そもそも明応の政変が戦国時代の始まりだー
と言い出した学者って誰?


18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 03:36:39 ID:IbfYffWA
>>15
戦国時代以前の室町時代もわりと戦乱の時代だったりするんだよね

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 04:07:13 ID:uEDXDMk2
応仁の乱終わった後は、足利幕府の畿内への支配力は、強化されてる。
将軍義向の近江親征や伊勢・大和・河内への出兵計画、義材の河内出陣etc
将軍は親衛隊;奉公衆を応仁の乱後に完全に掌握し将軍の指揮下に置き畿内
における最大の軍事力を目指している。それに守護大名は乱の最中から在国
を始めており、洛中には例の細川政元とその一門、それに管領の畠山政長ぐ
らいしか居ない。畿内の大名は六角氏と畠山氏ぐらいでその2家を足利将軍
がしきりに攻撃している。そのかわり幕府の全国レベルの支配力は無くなっ
てるけど・・・義向・義材両将軍は幕権回復のため将軍親裁と奉公衆の軍事
力強化で対応し、畿内に関してはある程度成功してる。応仁の乱後に畿内に
奉公衆に単独で対抗できる軍事力を持った大名は、細川政元ぐらい。そのた
めなのかな?義向・義材両将軍の御親征に協力的でなかったのは。

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 05:14:47 ID:Ib0YHVGX
>>19
たしかその頃の討伐に、
次は越前朝倉か?美濃土岐か?
と真剣に検討される位、将軍家の力は回復してたのは事実だね。

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 12:00:13 ID:A++IvWBQ
>>15
下剋上的な側面から言ってるんじゃないの?

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 12:18:17 ID:AIfH8qqw
>>21
その通りですな。

ただし下の細川が上の将軍家を滅ぼして代わりに上に立った
わけではなく、将軍家の間で別の神輿を担いだという形だから、
「下剋上」じゃなくて「主君押し込め」と呼んだほうがいい、
という説はある。

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/27(水) 03:17:29 ID:Ja/jJqK4
>>22
細川政元が明応の政変で目指していたのは、
室町幕府の乗っ取り「京兆専制」なのか、それとも・・・
室町幕府から独立した「戦国大名」なのか、論争がありますね。

政元がなしえた事は、足利将軍家の集権化と軍事力強化を横から断ち切った事でしょうね。
この政変で奉公衆は完全に崩壊し足利将軍家の軍事的基盤は無くなります。

政局面から言えば、応仁の乱よりこの件の方が重要かもしれませんね、応仁の乱は守護大名
(地方封建領主)が2派に割れて争い共倒れになっただけで、将軍家に直接軍事的対決をもたらす
性格のものではなかった。イギリスのばら戦争やフランスの百年戦争と同じ性格かもしれま
せん。英・仏のチューダー家とヴァロワ家による集権化もこれらの戦後に進みました。

私の仮説ですが、将軍義向が長命なら細川政元はどうなっていたんでしょうね。
明応の政変では、日野富子が義材憎しで政元に協力したんでしょうけど、義向
が将軍ならそんな事はしないはずですので足利義教の時のように赤松家に暗殺させ
るんですかね?足利将軍家と細川京兆家の関係はかなり微妙というか、むしろ
陰湿に対立してるのかもしれませんね、応仁の乱以前から。

畿内の領国化を目指す政元には足利将軍家も畠山家も一門の阿波守護家も奈良
の寺社勢力も打倒する対象と言えるかも知れません。



24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/27(水) 20:31:47 ID:smvwj/f2
最近の研究では義尚を義向って書くのが定説なのか?

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/28(木) 00:43:44 ID:v31mqMRB
>>24
ナイス ツッコミ!義尚ですね。失礼致しました。よしなお君です。

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/28(木) 01:11:18 ID:si/ZBuAq
ひさだと思ってた

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/28(木) 02:43:44 ID:v31mqMRB
>>25
よしひさです・・・たびたび間違えてしまい申し訳ないです。

たしか陣中でお酒の飲みすぎで死んじゃった将軍ですね、昼夜逆転の生活を
していたとか、甘いものが好きだったとか、公家の娘にストーカーまがいの
事したとか変な人ですね。
足利一門には「鬱の遺伝子がばらまかれてた」との事ですが、
義尚もそうなんでしょうね。25歳で死ぬのは早すぎですね、あと10年生きて
れば将軍権力の集権化や幕府の支配領域の回復も進んだ可能性もあると思う
んですが?

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 03:29:49 ID:zepIc/2f
細川政元の室町幕府乗っ取り説(京兆専制)→今谷明

細川政元の室町幕府からの独立説(戦国大名)→末柄豊

どちらが事実に近いのでしょうか?

政元が自分で将軍になるつもりは無いんでしょうけど。
管領畠山政長の専横に対する反感はかなりあったんでしょうね。政長は、他の在国の守護大名にも嫌われてたと言う話を聞いたことあります。

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/01(日) 04:16:00 ID:U1qh1kEv
細川政元の力の源泉は、幕府内の地位や権限ではなく
丹波・摂津両国を支配している事にあると考えてもよいのでしょうか?

この両国は、幕府所在地の山城を西から囲むように隣接し、交通の要所
でもあり何かあればすぐに洛中に軍勢を入れられる。また勝元の代から
山城領国化工作を開始しています。元々畠山氏の力が強かった山城は、
南山城国一揆で畠山氏を追放します。これも政元の陰謀ぽいです。

細川京兆家は、応仁の乱終結後も将軍家の意向に囚われずに
(伊勢氏とは協力しつつ)山城の領国化を行う方針であり、同時に丹波
摂津両国の維持に全力を注ぐ政策を取っている。
讃岐も京兆家は、領有維持の姿勢であり現地の反乱や阿波から侵入に軍勢を
送り軍事的対決をしている。
ただし土佐の支配は現地の守護代(細川一門)に委ねている。

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 05:28:32 ID:G0WZ1IwD
将軍義材が第2次近江親征を行っている時に、丹後と越前への親征の噂が
出ていた。その時に将軍義材は、丹後の守護一色氏に対し親征中止の条件と
して押領した奉公衆の領地返還とともに再度在京する事を求めた。
この事が、在京した守護大名を刺激したと言われている。なぜなら守護大名
は在国しても必ずしも立場が強化された訳ではなく、守護代に実権を奪われ
ていたり被官(家臣)・国人たちの反抗や下克上が始まっていたからだ。細川
政元も丹波・摂津両国の守護代(内衆)と国人の処遇・処罰について対立があ
ったと言われている。このように将軍義材が在国要求を一色氏にした事に守
護大名は敏感に反応し細川政元の将軍廃立(明応の政変)に賛同した可能性が
強い。彼ら在国した守護大名にとって幕権回復が畿内にとどまらない可能性
を見出し政元に解決を託したとも言えなくもない。また将軍義教・義政は、
守護代の人事にも口出ししており、このことで守護代クラスも幕権回復に反
対した可能性がある。将軍権力が回復したら実権を握りつつある守護代も再
度幕府に押さえつけられると考えた可能性もある。したがって細川政元の将
軍廃立に有効な反対がなかったのはこの為ではないかと思われる。


31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 20:03:12 ID:Yq/dMLSt
間違いを修正します。

在京した守護大名を刺激したと言われている。
    ↑
    を

在国した守護大名を刺激したと言われている。

に直します。失礼いたしました。



32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 20:06:23 ID:Yq/dMLSt
再度、間違いを修正いたします。

このように将軍義材が在国要求を一色氏にした事に
      を
このように将軍義材が在京要求を一色氏にした事に

に直します。失礼いたしました。

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 20:08:07 ID:Yq/dMLSt
>>31 >>32は、>>30の修正です。あしからず。

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/05(木) 04:35:56 ID:d4PCWLST
末柄豊は、細川政元が将軍義尚の第一次近江親征に協力しなかったと記述し
ているが、他の資料では政元は協力した事になっている。京兆家の軍勢は奉
公衆と一緒に出陣しているし、政元は六角氏を追撃しその後近江に守護にも
任命されてる。義尚と政元の間には特に何もない。1479年に政元が丹波に拉
致された時、内衆と細川一門の一部が細川勝之を還俗させ擁立しようとした
事件でも、幕府は事態を静観しており特に勝之に肩入れしていない。京兆家
の家督分裂の危機が他家同様に存在したのに将軍義尚と大御所義政はそれを
利用することはなかった。義尚・義政と政元の間には特に対立点はないよう
に思える。

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 19:08:49 ID:Rd0aM6+B
 

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 19:09:20 ID:Rd0aM6+B
 

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 21:01:04 ID:g2ORlS7v
名前を変えて将軍職に復帰ってのが面倒だな。改名した意図はなんだろ?

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/18(水) 04:39:30 ID:ik3sN8Re
大川栄作 から 大川栄策ミタイナコト。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 15:37:21 ID:ke2Z418q
>>37
義材→義尹→義稙のことかな?
義尹改名が明応七年(1498)とすると、周防に落ちていたころ
義稙改名が永正十年(1508)とすると、そのころは高国、義興で安定してたころ

前者は期するものがあるとしても、後者はよくわからないね

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 18:16:21 ID:J8tnaI3K
>>39
永正10年(1513←だよね?)3月に、義稙は高国らの専恣を怒って近江甲賀に出奔してる。
4月に高国と義興がもう背きませんっていう誓書を提出して、5月に義稙は帰京。

ここら辺で思うところがあったんじゃないかな?

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 18:33:12 ID:ZBOQ19kA
そういや等持院の木像は、どの名義で作られてるんだろ? 最初の義材?

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 15:13:32 ID:F5YQ8O5P
義稙か恵林院じゃないですかね、行ったことないのでわかりませんが

>>40
ううう、申し訳ありません、間違えました
その流れで11月改名ですね


43 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/28(木) 16:19:41 ID:SxoTVM39
>>41-42
義稙の名義みたい。
ttp://homepage1.nifty.com/heiankyo/rekishi/reki11.html

44 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 18:03:50 ID:IQAjyjdo
この事件って教科書に載ってる?

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