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長尾景春

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/23(水) 04:01:29 ID:QSqNSS9C
北条早雲にも評価された長尾景春について語ろう。

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/23(水) 04:13:48 ID:QSqNSS9C
上杉顕定や足利成氏や太田道灌。
当時の武将や関東情勢についても語ってください。

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/23(水) 04:23:57 ID:wyF1JuHi
そりゃ、長尾景春がいなかったら、大田道灌と全面的に戦わざるを得ない早雲は景春に感謝しただろ。

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/23(水) 04:52:08 ID:QSqNSS9C
何度も何度も挙兵する執念はよほど山内上杉氏を恨んでいたんでしょうね。
同盟した武将は長尾為景や北条早雲下剋上の先駆者として名高い武将ですね。

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/23(水) 05:28:55 ID:wyF1JuHi
上杉禅秀の再来だな。

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/23(水) 07:08:27 ID:rPGRKTKX
桃井忠常の再来だな

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/23(水) 11:24:32 ID:w27li4Se
直常じゃないのか

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/24(木) 15:04:08 ID:F2YBw/H/
>>4
山内顕定は白井景信の死後、白井景春じゃなく惣社忠景を執事にしたから
二代つづいて執事を出した白井長尾の景春は、俺じゃないの?当然俺だろ!と反発

このとき道灌は、景春の器量では執事は難しいが、せめて武蔵守護代に任じたら、
それがダメなら景春を誅すべきだ、と顕定に主張したといわれている
顕定はどちらも却下したけど

景春と宗瑞・・・公方成氏と山内顕定が和睦、孤立した扇谷朝良を景春と宗瑞が支援したのが始まり
ともに勢力の伸張が目的でしょう

景春と為景・・・為景が越後房能、山内顕定を討ったことに、宗瑞と景春が呼応、両上杉と戦う



9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 05:07:08 ID:PNaKsZc2
15世紀の関東って面白いのに人気ないね、、、

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 08:43:59 ID:n7caQM+F
道灌中心に回ってる、って程単純じゃないから、取っ付きづらいのかな

調べれば調べるほど面白いのにね

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 03:18:09 ID:xEG+MuPr
公方VS管領の抗争が関東全域に波及して、宗家と庶家の対立が激化したり、複雑で面白いよな。


12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 14:37:48 ID:MS85cFmB
公方と管領と扇谷の対立が柱なんだろうけど、
長尾も白井だ、惣社だ、足利だ、加えて越後だ、越後上杉だ・・・
近隣の豪族巻き込んで遣り合ってるうちに、後北条が台頭するん

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 22:44:01 ID:UIKIwg0F
景春の子孫はどうなった?

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 15:06:32 ID:m1Tzt+JD
景春ー景英ー景誠までは、越後長尾を協調しながらつづくが、景誠は家臣に暗殺されたという

そのため惣社長尾から景房(のち憲景)が迎えられ、山内と復旧、憲政が謙信を頼ると越後方に
その後武田→滝川に従うが本能寺の変後、後北条方に
子の輝景、その弟政景(のち景広)と続くが、小田原の陣後、加賀へ連行、後に上杉家家臣

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 19:27:49 ID:qvn7aU4U
上杉持朝、上杉房定あたりも当時の関東の大物だよね

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 13:47:53 ID:fyscBwjD
相変わらず、レス付かんなぁ、、、
道灌が何だ!
プロレス同様、場を盛り上げるのはヒールの方なんだよ!

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 10:27:34 ID:2z6AY45E
当時の最大のヒールは足利成氏公で決まりかな

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 17:47:07 ID:DWOqdWCN
長尾景春の名をはじめて知ったのは「南総里見八犬伝」。
もちろんフィクションだけど、いちおう設定年代が同時代。
びみょ〜な存在感がある。
でも、白井長尾と越後長尾をごっちゃにしてるよ馬琴センセ。

馬琴も軍記物を下敷きにしてるとは思うんだが、
長尾景春は当時の人にそれほど興味を引かれなかったんだろか。

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 15:01:07 ID:0wDa9DoC
関東では重大な乱なんだけどね

両上杉→後北条→徳川と統治者が替っていくうちに、
存在感が薄れていったんんじゃ


20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 03:05:59 ID:OjgPsWEO
白井長尾とか惣社長尾とかの存在が戦国後期には埋もれていって
なぜか越後長尾のオマケみたいな扱いだしな

21 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/21(木) 15:02:17 ID:C6DVSwIZ
景春の件で山内に追討された白井長尾が、山内顕定を討った越後為景と結ぶのは自然の流れ
山内と越後長尾が和睦すると、白井、惣社も山内に復帰
だがこの段階で両家には昔日の力はなく、あとは越後と北条の間で揉まれる

22 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/04(木) 01:48:49 ID:Hyvy95Hf
私その長尾景春の子孫ですう

23 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/04(木) 17:11:39 ID:QGzsA2Um
まじで!?いいなぁ。景春カッコええなぁ。領土欲ないのが、謙信っぽいよね。
この人の墓とかお参りしたいな。もっと評価されてもいい武将だよね。ノブヤボの蒼天記PKにも登場するよね!

24 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 00:39:21 ID:YTWJAxlp
よくわかんないけど、うちは祖父の祖父の代くらいまでずっと名前に景がついてたらしいんだ。
えらい人なんだね。




25 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 00:46:43 ID:CUvAcpDV
>>24
すると、米沢の方ですか???
ちなみに神奈川に住んでるんですが、私の田舎は群馬の白井の近くですw

26 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 12:54:53 ID:YTWJAxlp
米沢・・・どこでしょう?
私は鳥取ですよ。

27 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 13:34:57 ID:oCh8LVei
上野国の白井長尾家はのちに上杉家に従い山形県の米沢に移ってるんだよ。
鳥取とはまた???分家筋?が因幡国鳥取池田家に行ったの?

28 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 14:01:09 ID:YTWJAxlp
???
ごめんなさい、わかんないです。

29 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 14:48:24 ID:K5KmZnQP
あのさ、皆知ってることを前提にするからレスが付かないんだと思うよ
こういうマイナー武将の場合は>>1が経歴を書いて説明しなきゃ
盛り上がらんと思うぞ

30 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 15:03:14 ID:oCh8LVei
そっか、祖父の祖父の時代からはずいぶん経ってるから結婚したりで一族は
広範囲に散らばり繁栄してるのかもね。

31 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 01:49:55 ID:OUu8F0oG
太田道灌
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1167648277/l50

11 :名無し議論スレにて投票方法審議中 :2007/01/02(火) 16:58:25 ID:BTTwBX/8
この人たいしてすごいとは思えない。江戸城は道灌の父が作ったんじゃないのか?
あと岩槻城は忍城の成田氏が作った事が分かってきた。
秩父一族の江戸氏や豊嶋氏なんて関東の争乱に毎回巻き込まれ弱体化してたのを己が勢力を扶植する野望から扇谷の大軍勢を率いて撃っただけでしょ。
結果的に扇谷勢力が拡大したが、それが為に主を怖れさせ謀殺された情けなさ。
だいたい長尾景春の乱で相模の人々が扇谷傘下から離脱して乱に参加したのは扇谷家宰としての力量を疑う。
反乱時期に道灌は相模地元の味方に任し放置して北上しようとしてたが多摩川が増水していたので断念して相模鎮圧を優先した。
仮に相模勢と合流せずに北上してたら武蔵の地にて惨敗してたろう。
早雲も武田や松平に敗退する男で将軍や管領細川政元と後援があった時代はうまくいっていたが、
山内上杉の離間策成功からは勢力拡大に苦戦続き。長尾為景や長尾景春の反乱の漁夫の利を得ただけ。



32 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 01:50:33 ID:OUu8F0oG
13 :名無し議論スレにて投票方法審議中 :2007/01/02(火) 18:36:23 ID:UyUHD8aK
道灌って過大評価気味だろ!
同じ平氏の長尾・秩父一族の他に相模から溝呂木城・小磯城・小沢城が反乱に同調。
景春側の川越城攻略には小机城主さえも謀反に同調。道灌の政治的力量や求心力に疑問を持たせる。

もし知将なら鉢形城(反乱蜂起してから作ったのでロクな備えがない)を落城させた後に
最終決戦地の秩父領内に攻め入り景春の息の根を止め後顧の憂いを除くだろう。
道灌には秩父一族の甲斐小山田氏などの介入を政治力で阻止することに失敗したのではないのか?
西の景春に兵力を釘づけにされ東では古河公方の圧迫が激しく、泣く泣く成氏との和睦路線で乱の終結を図る道を選んだといえる。





33 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 01:51:35 ID:OUu8F0oG
17 :名無し議論スレにて投票方法審議中 :2007/01/03(水) 00:30:38 ID:E2qYRimV
道灌は困りはててたのは事実。なんせ景春党の豊島一族残党が平塚城で再度挙兵し相模へ戻らなきゃならなくなったし
成氏は和睦したフリをして道灌を欺いて房総半島で千葉孝胤に景春と呼応させ上杉から離反させるようにして道灌を房総半島まで誘導してる。
結局、武蔵東部での足利成氏の介入もあり、武蔵西部では日野城落城までの進出が攻勢限界点となり、秩父深部への戦線に介入できない為に
鉢形城は奪回され、奪回するの繰り返しの泥沼。あげくに景春・成氏側は幕府へ和睦の調停を依頼し、ヤリ逃げ、ヤリ得状態で終結させてる。
これにより堀越公方が伊豆から東へ進出できない事が確定してしまい成氏の地位が安泰になってしまう。
このあとの成氏・景春側の戦略は道灌を除き両上杉を仲たがいさせて、疲弊させるのが至上命題と言ってもいいだろう。

ここで注目したいのは、道灌が死んで2年後にはなんと扇谷上杉側に立って須賀谷原の合戦に参加し
かなり苦戦中の扇谷勢の中で長尾景春の伏兵の活躍と奮戦により逆に戦局をひっくり返し優勢となり、本陣に攻め込まれた山内上杉方が戦場から先に退却してる
ということだろう。ちなみにこの闘いでは道灌の嫡男太田元六資康が山内上杉顕定方で在陣していた。
なんと景春がのうのうと扇谷上杉に参加しているではないか。道灌暗殺の黒幕は扇谷上杉の人脈に入り込んだ景春なのではないか?

関東管領山内上杉の主導で古河公方との和平を取り決め、それを主筋の扇谷上杉に納得させる為に道灌は使いしてる。これも道灌を陥れる策の最初の一手だろう。
山内上杉の元家宰の家柄の景春からすれば山内上杉人脈を通して山内上杉顕定の耳に道灌を陥れる策を吹聴し、それを扇谷上杉に仕込む事も可能だろう。

この闘いの後に高見原の合戦が起きたがこの時は同じ長尾家の越後の長尾為景を扇谷上杉方の味方として呼び寄せてる。この時に扇谷上杉定正が落馬死去。


34 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 01:59:07 ID:OUu8F0oG
19 :名無し議論スレにて投票方法審議中 :2007/01/03(水) 10:39:26 ID:3GMkC1VI
>>16
長尾景春はハイエナ大名じゃねーぞ!
山内上杉顕定が祖父・父と続いた山内家宰の地位を不当に奪い盗ったから離反したんだぞ。
道灌だってその不当さをヤバいぞ!って顕定に諫めてるくらい。
だから反乱を起こす前に道灌にも仲間にならんか?って誘ってる。
基本的に景春の目的は領土欲もなく、ただ山内上杉顕定に復讐する事で、
道灌には何の恨みもないのに突っかかってきたのは道灌の方。
顕定を敗走させてるし、和睦後に山内と扇谷を対立させ、
越後に顕定を誘導させ敗死させ復讐を果たしているし、撤退してきた養子の上杉憲房の退路に布陣し旧領白井城を奪回して両上杉滅亡を決定ずけて天寿を全うしている。
早雲も景春の事を知略・雄略に優れた士と褒め讃えている。




35 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 12:02:01 ID:Wp6+TLOp
道灌は自らの勢力拡大の野心から武蔵戦線に介入し扇谷・山内の大軍を指揮するも東に西にと走り回ったあげく泥沼に陥り幕府へ反旗を掲げていた成氏と景春が幕府に調停依頼し、道灌も乱を終結する力量はなく和睦を受けざるを得ない状況になる。
幕府も成氏への対抗のため掘越公方を支持してたのに、景春の反乱参加により乱が拡大し成氏と融和せざる負えなくなった。
幕府の要望もあり関東管領の山内家が和睦交渉の主導権を握り勝手に和睦。
このへんは成氏や景春の交渉・謀略能力の高さの証明でさらに道灌を陥れる秘策は続く。
山内主導の和睦を不愉快に思う扇谷へ説得に行かされた道灌は主筋の扇谷から不興を買うハメに。


36 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/09(火) 00:31:25 ID:rjbhaNNV
上杉憲実
関東管領山内上杉氏の本拠地は群馬県藤岡市南西にあたる平井城で武蔵国・上野国・伊豆国を領国として関東統治をしていた。また分家は越後守護になった。
のちに越後上杉家から山内上杉憲基の元に養子に入って管領職を継いだ憲実(父は山内家出身)は何かと京都に反抗するDQN鎌倉公方足利持氏に諫言し続けた。
1・持氏が将軍に選ばれなかったのを逆恨みして兵を率いて上洛しようとするのを諫止して止めさせた。
2・幕府の改元を無視した持氏に代わり謝罪の使節を派遣し幕府との関係を修繕し、持氏の鎌倉府が横領していた幕府所領を返還させた。
【このころより足利の領主も兼任した憲実は荒廃しきっていた足利学校を再興し援助を開始した。初代校長鎌倉円覚寺快元和尚を招き蔵書を寄贈したりした。
一説にはこの上杉憲実が足利学校を開設したもので、1432年以前には存在しなかったという説もある。これは、水戸藩が編纂した『大日本史』の記述に書かれている】
3・将軍義教が富士下向して恫喝してくると関東情勢不穏を理由に出席を延期させ幕府要人に進物するなど調停活動をして持氏を諫めた。
4・信濃国で守護小笠原氏と豪族村上氏が対立した時にDQN持氏が管轄外にも関わらず村上氏支持で出兵しようとするので兵を出して信濃侵入を阻止した。
5・持氏の信濃再出兵が企画されると憲実は相模国藤沢へ下り、持氏は在職を望むものの憲実は管領職を辞任した。
6・持氏の嫡子賢王丸(足利義久)の元服式の時に将軍から一字賜るよう進言したが持氏は先例を無視し暗殺しようとしたので元服式自体は欠席し上野平井城へ帰る。
7・幕府は関東での事態に対して持氏討伐の兵を下す。憲実は持氏の助命と義久の関東公方就任を幕府に嘆願するが、義教は許さず、憲実はやむなく永安寺を攻め、持氏と義久は自害した(永享の乱)。
8・乱後、憲実は後事を弟の関東管領代行上杉清方に託して、伊豆国清寺に退き出家し雲洞庵長棟高岩と称した。
9・幕府は憲実に政界復帰を命じ、結城合戦のおり憲実はやむなく復帰。弟の清方などと長尾景仲の補佐を受け出陣した。その後、憲実は再び隠遁した。
10・嘉吉の乱で足利義教が暗殺されると関東の反乱を危惧し秩序回復のため、幕府は憲実に関東管領復帰を命じるが憲実はこれを拒み子供達を出家させる。
11・関東安定のため持氏の遺児成氏が鎌倉公方になると、幕府は憲実の長男憲忠が還俗させ関東管領に就任させた。憲実は憲忠を不忠の子であるとして義絶した。
12・憲実の危惧通り、憲実を親の仇だと考えていた成氏は1454年に憲忠を暗殺して、享徳の乱を引き起こしてしまう。結果、幕府の追討を受け今川軍が鎌倉を占領し古河に逃走し二度と鎌倉に戻れず。
13・世を儚んだ憲実は諸国遍歴の旅に出て最後は九州の大内氏のもとにいたと言う。


37 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/09(火) 00:32:21 ID:rjbhaNNV
長尾景仲
憲実は隠居して弟の清方を名代として政務をとらせた。ここにおいて、山内家の主導権をにぎり実際の政務にあたったのは長尾氏であり、家宰を惣社長尾忠政が、武蔵守護代は景仲が務めていた。
その後、景仲は忠政に代わって山内執事職も務めるようになった。宝徳元年(1449)、永寿王丸は成氏と名乗り鎌倉府が再興された。関東管領職には上杉憲忠がつき政務を行った。
しかし、成氏は父や兄に属して没落した者の子孫を取り立て側近に登用したため、それに反対する管領上杉氏と対立するようになった。
 当時、山内上杉氏では憲忠が若年であったため、長尾景仲が名代として政務一般を取り仕切り、景仲を長尾一族が助けて関東は事なきをえたという。
一方、扇谷上杉氏の当主顕房も若年であったため、家務は執事の太田資清(道灌の父)が代行していた。
長尾景仲と太田資清の両人は「その頃関東の不双の案者なり」と称され、ともに才幹・武力にすぐれた実力者であった。
参考・・・長尾景仲の像ttp://www.manabi.pref.gunma.jp/rekisi/nanmuro/19.htm

長尾景信
1413年、上杉憲実の家宰・長尾景仲の子として生まれた。1461年、父が高齢を理由に隠居したため、その後を継いで山内上杉氏の当主・上杉房顕の家宰となった。
1466年に房顕が嗣子無くして死去すると、越後の守護大名であった上杉房定の次男・上杉顕定を房顕の養子として迎えた上で山内上杉氏を継がせ、1467年には関東管領にしている。
そして景信自身は守護代として山内上杉氏の実権を掌握し、影の実力者として古河公方である足利成氏と対立する。
1471年4月には自らが総大将として上杉軍を率いて下野国に攻め入り、赤見城や樺崎城を落としている。同年5月には下総に攻め入って、遂に成氏の居城・古河城をも陥落させてしまった。
しかし1472年、成氏が古河城を奪い返したため、再び自ら総大将として下総に攻め入り、足利軍と対峙する。戦いは優位に進めていたが、
その最中である1473年6月23日、五十子において陣没してしまった。享年61。


38 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/09(火) 00:38:44 ID:rjbhaNNV
景春の父が上杉顕定を越後から養子に迎え関東管領山内家当主として擁立してあげた恩を忘れ景春から山内家宰職の地位を奪った。
これらのことが関東を果てしなき混乱に導いた経緯です。


39 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/09(火) 08:50:12 ID:9EkVihBq
景春は嫡子として景仲に従い幾多の戦に参加しただけでなく独自行動も行える力量があったから父も期待してたろう。


40 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/09(火) 09:25:22 ID:9EkVihBq
扇谷上杉での道灌の専横に反感を持つ重心曾我兵庫を始めとする人々を煽ったのは景春だと思われ。
一説には江戸・川越にいて盛んに不必要な築城強化を進め扇谷上杉へ挨拶にも赴かずに扇谷家宰職を執行していたので不安定な関係になってたと言う。
扇谷家での己の讒言の数々を聞いて知っていたにも関わらず馬耳東風の道灌はいよいよ堅城造りに励み、端から見れば山内上杉家を討つつもりなのでは?
扇谷上杉家を差し置いてあたかも政府機関を江戸に作ってるように見えるのはどういう野心があるのか?
という事になる。山内家から扇谷家に詰問の使者がやってきて上杉一族の不和を懸念しての道灌暗殺となった。
曾我兵庫が道灌を暗殺後に江戸や川越が任せられる事になり道灌嫡子は山内家へ逃走。
山内家と扇谷家が対立した際には扇谷で足利成氏に長尾景春の救援を要請し景春の伏兵で山内家を打ち破ると同時に一族の越後長尾軍を呼び寄せる。
関東管領家宰職の家柄の人脈がなければ山内・扇谷に対して謀を巡らし道灌謀殺は成功しないだろう。

41 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 02:03:33 ID:o/zi5jKb
なんか景春をこのスレで褒めるのはいいけど、
太田道灌に敵意むき出しで、道灌のスレまで荒らしてるのはちょっと見苦しいな・・・。
関東戦国史が好きな身としては道灌も好きなのでこの流れは頂けない。

42 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 09:11:54 ID:ukFyNmk6
天寿を全うできない先の見えない道灌では評価下がるのは仕方ないだろ。
景春の乱での道灌には大戦略がない。
戦術レベルの能力は多少あるようだが、上野や相模、武蔵や下総など場当たり的に東に奔ったり北に進軍したり、西に討ちに行ったり、お膝元の南に乱起きたりで見事にゲリラ戦の泥沼化の愚策ぶり。
ほとんどの方面で息の根を止める事ができないままで成氏や景春のヤリ逃げ、ヤリ得で和睦しただけ。
道灌は根本的な解決ができず、ただ奔走し疲弊しただけ。
とくに房総半島まで討伐に行くなんて愚の骨頂。和睦したフリした成氏が後ろで糸を引いてるのにw


43 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 12:01:54 ID:JMXx3t6X
道灌は周りを敵で囲まれた項羽みたいな感じだよな。
何回局地戦で負けても復活する劉邦が景春って感じ。陳平の離間策にかかって道灌謀殺された感が…そして景春が恨み骨髄に思ってた山内上杉顕定は惨めに越後で敗死し旧領白井城に復帰し天寿を全う。
あれだけ関東を乱した成氏も地位を安泰化させたしね。

44 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 23:22:07 ID:ukFyNmk6
道灌の自分の事しか考えない傲慢さと視野の狭さが、主君扇谷上杉政真を若くして五十子の陣で敗死させたり、
景春の父が古河城を落城させたおりに成氏が頼った千葉孝胤が景春救援の為に背後で挙兵した際には。
孝胤の籠もる臼井城を攻撃するべく道灌が派遣した弟の資忠が見事に敗死して下総攻略に失敗する。など無駄な多方面作戦を展開し泥沼の戦乱を拡大させる無能さは致命的。


45 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 23:33:35 ID:o/zi5jKb
このスレで言ってる分には良いけど、他のスレは荒らすなよ。

46 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/11(木) 02:25:50 ID:0ZDlVnZS
まぁ山内・扇谷両上杉(伊豆・相模・武蔵・上野)の軍権を兼任し指揮できる立場の道灌に対して圧倒的戦力差がある中で少数の景春一党は善戦してるよ。
山内上杉本拠の平井城と扇谷の一大拠点川越城を分断すべく鉢形城(反乱を起こしてから即席で築城してるのでロクな備えは無かっただろう)
に入り秩父一族の後援を受けての反乱には戦略的持久の大戦略を基本に、寡兵をよく指揮して道灌を勢力圏に奥深く引き付け、後方で反乱を頻発させる・・・遠交近攻策の見本みたいな戦い方で道灌を各地に奔走させ疲弊させてる。

圧倒的な軍事力を持ちながら効果的に使えない道灌は、首謀者を誅殺できずに結局は和睦せざる負えなくなるもんな。
和睦後の謀略戦で傲慢を鼻にかける道灌を主家に欺かれ逆に誅殺されるアホらしさ。結果、讒言した山内家に道灌の息子は逃げるハメに。
山内に成氏が巧みに接近し扇谷との仲を裂く。その一方で成氏側の景春が扇谷支援に再び登場し山内軍を破る。
その後、為景や早雲を巻き込んだあげく扇谷定正はマヌケにも落馬死。同族越後長尾との共闘で山内顕定もミジメに敗死に追い込む。

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