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人取橋の戦いは政宗の敗北

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 21:24:27 ID:UmMM7sLZ
元々政宗が畠山を攻めて始まった戦。
連合軍の侵攻によってその戦略的目的を達成出来なかった以上伊達の敗北だ。
また伊達軍は大量の死傷者を出し、重臣を失うなど大被害を被っている。

伊達が勝利したというのは間違い。

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 21:27:14 ID:7UrJLhGB
佐竹の謎の撤退は何が原因何ですか?

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 21:44:54 ID:/pFRu8mb
>>1
そーなの。
ふ〜ん。

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 21:48:38 ID:Bkm+65na
つうか普通に敗けだと認識していたが
あれが勝ちだという見方もあるのか…

>>2
江戸・大掾の軍勢が攻めてきたからだとか
ちなみに近衛の小説では正室の謀略になってた
要するに疑問の余地があるってことだろうな

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 21:51:05 ID:Ofe7F0JY
義宣の母が伊達家の出身だから事前に伊達への追撃を控えるように母から指示を受けていた義宣や重臣達が遠慮したからじゃなかったっけ?

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 22:41:30 ID:7UrJLhGB
家臣が謀反して大将が死んだから撤退したという説もありました

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 00:06:53 ID:q3dkyew7
この戦いでの奮戦が政宗の名声を高め、
その後の伊達家躍進に繋がったことは確かである。


8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 00:23:02 ID:kESOt+3E
佐竹家譜などでは、義重の代わりに佐竹の大将を務めていた小野崎義政が、
下僕に刺されて死んでしまった為に兵を退いたとなっているけどな。

義重室が伊達を潰さないように懇願してた事は、人取橋の後の郡山合戦なんかでは記述があったはず。

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 00:57:41 ID:FU79QDhr
>>1
両者どんくらい死んだの?

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 04:52:26 ID:DGpZPX65
江戸や里見が太田突いたとか言う話しは創作ぽい
まず江戸らが出陣した記録が一つもない
そもそも義重が出陣した記録すらない
前年は沼尻で100日に渡って北条と対峙して
講和したものの人取橋の数カ月前まで下野に滞陣し
北条も上野や下野南部に兵を進めていた
それで義重は国を空けられず義昌を総大将として出兵したものと思われる
で、馬丁に刺される事故で横死
義重が出陣していれば義昌一人が死んだぐらいで撤退するわけがないから
信憑性は高いと思う
江戸らが出兵する動きを見せたと言う事は永慶奥州軍記に見られるが
これは佐竹藩士が記した物で当然のようにかなり佐竹贔屓に書かれていて
義昌の不名誉な死を隠蔽しようとする意図があるように見える
実際義昌の死に関する事柄は後の佐竹のどの資料見ても不自然なほどに伏せられている

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 07:55:47 ID:CZPxNnJA
佐竹が攻めあぐねたのは、観音堂で伊達成実の特攻攻撃を受けて怯んだためだな。
当時の政宗、成実、景綱らの行動は、1/3以下の兵力にかかわらず狂気じみた凄みがあった。

佐竹が人取り橋で兵を退いたため、連合軍は瓦解してしまった。その後、二本松、葦名、二階堂
と、ドミノ倒しのように伊達に併呑されていった。

南奥州を見殺しにしたのは、優柔不断な佐竹の責任と言うことになる。

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 09:03:23 ID:VBisPvLZ
成実の部隊なんて全滅寸前だったじゃないか
というか伊達勢はどこも押されっぱなしで
死にもの狂いでなんとか日暮れまでしのいだが死傷者も多くボロボロで
翌日攻められたら全滅か潰走しかなかったよ
会津勢も確実に仕留めようと慎重に準備してたが
逆にそれが仇となった
まさかあんな事態になるとは誰も分からないから仕方ないが
勝負は時の運といったところか

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 10:07:04 ID:8uxvreCJ
佐竹厨が運のせいにし始めました

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 10:54:28 ID:/J7KbF7S
佐竹はほんの数年前まで葦名、二階堂とかなり対立してたのにな
伊達の外交力がいかにショボイかわかる

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 11:00:15 ID:CZPxNnJA
激戦の翌朝、連合軍は遁走していた。敵陣はもぬけの空状態。

政宗としては笑いがとまらなかった戦いである。
徳川家康も、この戦いにいち早く注目し、以後伊達家との同盟
を深めていった。

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 11:10:47 ID:BRZOUIgF
どっかのスレで誰かが言ってたけど
結局は信長、秀吉、家康基準なんだなw

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 11:35:02 ID:FU79QDhr
つーか倍以上の兵力持ちながら一日で勝負付けられんかった方がどうかと思うが
やはり伊達の奮戦は評価されるべきだな

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 12:06:09 ID:FU79QDhr
3倍か。伊達やっぱつえーじゃん。

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 13:07:02 ID:MUDJdvZy
一日ぐらいじゃわからんよ

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 14:34:00 ID:nJOwoKWp
>>19
⊃関ヶ原

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 15:14:32 ID:KiyL6hzD
>>12
英雄はみんな運がいいんだよw

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 16:53:08 ID:/ztd8l/G
そうね
運も実力のうち、とだけ行っておきます

最終的に南郷以外を失ったのは事実ですから、
結果は重く受け止めます

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 19:03:14 ID:DGpZPX65
政宗は高倉城に富塚近江守・伊藤肥前守・桑折摂津守らに鉄砲300余挺を与え守備を命じ
本宮城には中嶋伊勢守・浜田伊豆守・瀬上中務少輔・桜田右兵衛尉を配置し
玉井には白石若狹守を守将とした
伊達成実は渋川から小浜城へ四本松経由で入場したが
小浜には小数の兵を残し岩津野の政宗本陣に合流する様に指示された為
馬場日向守・青木備前守ら300騎を残して岩津野へ向かった
政宗本陣に合流すると
前田沢兵部少輔と言う者が会津側に寝返り
その者を案内として高倉・本宮に攻めて来ると思われるので高倉付近に進出して応戦するよう伊達成実に命じた
伊達成実は出陣し糠塚で夜営した

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 19:12:58 ID:DGpZPX65
会津勢は岩城・蘆名らが一隊となり前田沢兵部少輔を案内とし高倉城を攻め
残りは本宮の政宗本陣へ当たる事を決した
11月16日、蘆名・岩城らの兵が前田沢の南に布陣すると
政宗は岩津野から本宮へ陣を移した
翌17日早朝、会津勢が高倉方面へ移動を開始
政宗も兵を二手に分け、一方は伊達成実を将とし高倉城まで進出させ
もう一方は片倉小十郎・伊達上野介らに大勢を与え大田原へ配置し連携をとらせた

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 19:25:29 ID:D5buPtHu
でも義重が出てこないと、伊達の三倍は集まらんのではないか?
真相は黒巾木組(漢字が分からん)が暗躍して佐竹の叔父が殺され、岩城・石川
辺りが引き返すとか、いろんな情報かく乱を伊達忍群が行ったのではあるまいか。
江戸や里見が攻めてくるとかも、情報を錯乱させて疑心暗鬼に陥らしたのでは。
で、あまりに恥ずかしい撤退しちゃったんで、叔父の死は突発事故とかにしたんで
なかろうか。 でなきゃ理由がつかぬと、いろんな本で言ってはる。
黒巾木組暗躍のことについては、伊達秘鑑とか言うので軽く触れられてる。
ああ後小大納言がかなり手助けしたかもね。政宗なら女・子供なんでも使ったと思う
特に滅亡寸前だったし。

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 19:32:13 ID:DGpZPX65
会津勢は高倉城を無視し直接政宗本陣を突こうと街道を直進した
高倉城の守備隊は打って出るか見過ごすかで揉めたが
伊藤肥前守・富塚近江守が
追い込まれようとも眼前の敵を見過ごすわけにはいけないと主張したので総勢で打って出た
会津勢は横合いから攻め掛かる高倉城兵を煩わしく思ったが
そこに後続の岩城勢がやってきた
高倉城兵は岩城勢に対し足軽を前進させ弓鉄砲を撃たせ
その後から武者が続き岩城勢に攻め掛かった
岩城勢からは竹貫三河守の隊が進み出て
雑兵に構わず後方の武者に矢を射よと命じ
手練の弓兵600名が揃って矢を放ち伊達勢の武者に降り注いだ
これには伊達勢も怖じけづき早くも後ろを向いて逃げ始まった為
竹貫三河守は一斉に攻め掛かった
その中で窪田十郎と言うものは茂庭左月を追い掛け易々と首を獲り、竹貫三河守も良き首を獲た
これを始めとして蘆名・岩城勢は勝ちに乗って伊達勢を突き伏せ首を多数獲り高倉山上まで追い詰めた

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 19:39:30 ID:DGpZPX65
本宮の政宗本陣にも鬨の声が聞こえ、浜田伊豆守・白石若狹守・高野壱岐守らに鉄砲100余挺を付けで高倉へ向かわせた
その部隊は白川・須賀川勢に遭遇したが会津勢は相手にせず大田原の伊達勢に攻撃を開始した
その為、浜田伊豆守らは背後を会津勢に遮断されてしまい
高倉付近の伊達成実ね陣へ合流しようて急いで駈けていった
やがて浜田伊豆守らは伊達成実の陣と合流し、大田原と高倉の二カ所で合戦が行われた

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 19:47:57 ID:DGpZPX65
浜田伊豆守らを無視して大田原へと向かった白河・石川・須賀川勢は
大田原を一掃し本宮の政宗を討ち取るべく攻撃を開始した
伊達勢も一応の防戦をしたものの耐え切れず観音堂を下り本陣へ逃げ始めた
敗走中に伊達勢は100騎あまりも討ち取られたが
原田左馬助・片倉小十郎・伊達元安・同上野介・同美濃守・同彦九郎らが踏み止まった為
本陣まで崩れる事はまぬがれた

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 19:57:51 ID:DGpZPX65
高倉の伊達成実隊は石川・白河勢に本隊の間を分断され会津・岩城勢と対峙し
腹背に敵を受けて進退窮まりここで討ち死にと覚悟を決めていた
会津勢は高倉城兵を山上まで追い上げ本宮へ向かおうとしたが伊達成実隊を見つけたので一旦兵馬を休ませた
伊達成実の陣中に伊達遠江と言う70を越えた老武者がおり
今日の戦が最後と言い会津勢に一騎駈けし、会津方2人と戦い一人を討ち取った
これに始まり伊達成実隊が会津勢に攻め掛かると会津勢も浮足立ち5町ばかりも後退した
しかし会津勢も橋爪で態勢を立て直して攻撃に転ずると今度は伊達勢が追われて元の陣まで押し返された

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 20:17:56 ID:DGpZPX65
伊達成実の家臣の羽田右馬助・中ハ右衛門などは退却の中で多数の敵を斬りつけ奮戦し
牛坂左近・萱場源兵衛などが会津勢に入り込み戦ったが勝敗は着かず引き分けた
伊場遠江は会津勢の中で傷も受けずに戦ったが退却中に会津兵一人が追い2太刀斬りつけ深手を負わせた為その夜死んでしまった
戦いが続くうちに兵馬も疲れ更に冬のため日も短く
会津勢はあと一歩のところで残念に思いながらも陣に引き上げていった
政宗本陣を目指した石川・白河・須賀川勢は観音堂を守る兵を蹴散らし進めば政宗本陣の5、6町の近さまで迫っていた
会津勢は一旦動きを止め兵馬を休ませてから本宮の政宗を討ち取ろうと観音堂から川端に移動し
弓を張り替え鉄砲の火繩に点火して準備をしたが
日暮れとなってしまったのでやむなく陣へと退いていった
それを見て政宗も岩津野へと退いていった

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 20:29:50 ID:DGpZPX65
その夜会津四天が集まり
明日の夜明け前に本宮を攻める事を決した
会津勢の中に100人ばかりの逃げ遅れた伊達勢が紛れていた
その者達は会津勢の動きを聞き夜半に紛れて岩津野へと帰り政宗へと報告した
政宗は今夜の内に対策するべく山路浜路なる者を高倉の伊達成実へ遣わし
会津勢の朝駈けを伝え、本日無事であった功を労い
死傷者が多数出てるだろうから今夜の内に本宮へ合流するように指示した
だが既に深夜だった為、夜明けを待って本宮城に入り会津勢を待ち受けた
ところが世が明けても会津勢は攻めて来ることはなく、その姿すらなかった

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 20:49:12 ID:DGpZPX65
今回の合戦で佐竹からは佐竹義昌なる者が大将として来ていた
義昌は馬を大事にする者であったので明日の合戦に備えて下郎達に馬の手入れをさせていたが
その中の一人の手入れが気に入らず、その者を蹴り倒した
その者は短気であったらしく咄嗟に刀を引き抜き
義昌の胸を突き通してしまった為に義昌は即死してしまった
大騒ぎになり事件は各陣にも伝わると会津四天らが集まり相談をした
頼りの佐竹が引き上げてしまっては士気に関わるし、明日の合戦で確実に勝てるか分からない
一旦黒川に帰り後日の為に鋭気を養う方が良いだろうと決し
その夜の内に全軍国元へと帰っていった

伊達の陣ではそのような事が起きていようなどとは夢にも知らず
なぜ攻めて来ないか不審に思い物見を出すと会津勢は引き上げ前田沢も共に付いていったと言う報告であった
それでも信じられず更に物見を出すとやはり会津は完全に引き上げたと言う事だった
用心して政宗は本宮へ行き再度岩津野に帰り様子を探ってみたが
何事もないので小浜へと引き上げていった

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 21:17:41 ID:VBisPvLZ
>>25
理由もなにも総大将が死んだら戦できるわけないじゃん…
大将なしで戦やってるほうが異常事態だよ

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 07:48:17 ID:fyphzKzH
佐竹、葦名、畠山等の連合軍3万に対して伊達軍はわずか8千人。
死者は連合軍960、伊達420人で、連合軍は散々痛めつけられている。
連合軍は、伊達の粘りに屈し、恐怖にかられ、戦場を放棄してしまったのが
真相だ。

大将が死んだから撤退というのは、ありえない。佐竹の苦しい言い訳にしか
聞こえない。

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 08:07:54 ID:VJUdg9V1
どこの史料だ。

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 10:05:40 ID:21zclcnU
戦いの勝敗は、首級などの選果ではなく、陣営が目的を達したか否かで決まる。
人取橋における連合勢の目的はなにか、伊達勢の目的はなにか、それが問題だ。


37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 15:22:21 ID:t1cyCVk3
伊達の目的
畠山攻略→失敗
連合軍の目的
畠山の救出→成功
旧領の回復→失敗
やはり引き分けだな…
伊達はかなり死傷者が出て1年ほど動きがとれなかったが
連合軍も盟主の芦名が跡目争いで崩壊
佐竹は対北条戦で忙しく奥州に構っていられなくなった
人為的でないにしても結果的に見れば損害は多くても伊達の方が有利になったな

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 16:05:07 ID:mJ+66/s6
>>35
その数字は俺も見たことあるけど、ソースがわからんな。
調べても両軍の戦死者数までは載ってないことが多い。

>>37
1年じゃないよ。正確には8ヶ月後に畠山を滅ぼしてる。
それに冬場は動けないことを計算に入れると、実質的には半年も経ってない。
つまり損害もそれ程大きなものではなかったのだろう。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 18:12:58 ID:DelhEs1T
奥州永慶軍記見ると佐竹勢が散々に打ち負かして
政宗は本陣まで崩され銃弾4発食らって車丹波に追い回されて三度殺されはぐってるが
江戸・里見らが太田を突いた為やむなく撤退したとされている
でも永慶軍記って佐竹家士が書いたものでかなり佐竹贔屓に書かれているから当てにならないと思う
第三者の視点から見た四家合考の方は極端な表現ないし信憑性高い
連合軍の大軍に伊達はじりじり押されて日が落ち、義昌の横死で退却
という何の変哲もない内容だが状況的に見て実際そんなものだろう

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 18:24:39 ID:t1cyCVk3
冬場動けないって何だよw
真冬でも合戦してるだろ
状況が許さなければ真冬でも真夏でも戦するに決まってるじゃん

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 18:52:03 ID:mJ+66/s6
>>40
お前出身どこだ?

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 20:07:16 ID:mJ+66/s6
雪国の事情を知らんやつはこれだから困る

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 20:50:48 ID:0ZJztnrm
真冬の戦って、どうやって戦するんだ?

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 21:06:08 ID:bQMz+61E
源義家も奥羽で冬に合戦してたよ

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 21:07:50 ID:dxIangwl
会津ならともかく
郡山で雪国って何処の馬鹿だよwwwwwwww

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 21:12:51 ID:mJ+66/s6
>>43
きっと雪かきしながら進軍し、かまくらを作って陣とするんだろう。
合戦する前にクタクタですな。野営しながら凍死者の数でも競ってろ。

>>44
例外なんて探せばいくらでもあるよ。
それに常に積雪があるってわけでもないから、その間は行動出来る。

だが降雪の時期になれば交戦中でも陣を退くのがデフォ。
攻め手が優位なら和議、そうでもなければ追撃戦が展開されるわけだ。

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 21:20:32 ID:VJUdg9V1
佐々成政とか?

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 21:34:12 ID:mJ+66/s6
>>45
何それ。雪国の定義について議論でもしたいわけ?
そもそも何故郡山限定で話をしてるのかが解らんわけだが。
政宗は郡山で挙兵して郡山で戦うのか?


それから俺は郡山でも十分雪国だと思いますが。

現在も  当  時  もな。何か? 

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 21:52:08 ID:t1cyCVk3
>>41
俺は君達の大好きな上杉家臣だよw
まあ、俺は福島育ちだけど
君の方こそ
雪の為に行動できません
てゲームの内容で想像してるんじゃないか?
東北だから何処でもいつでも大雪じゃないんだぞ
あまり馬鹿にしないでくれw

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 22:01:20 ID:mJ+66/s6
>>49
アホか。
俺も山陰地方の雪国育ちだ。
福島育ちは徐行されたアスファルトの道ばっかり想像してんのか。
あと>>46嫁よ。

>それに常に積雪があるってわけでもないから、その間は行動出来る。

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 22:08:47 ID:DelhEs1T
まあ、他の時期に比べれば少ないが冬の戦は珍しいってほどではないわな
人取橋の翌年元旦にも芦品と伊達の間で渋川合戦があったしね

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 22:31:47 ID:6irdd+Qo
人取橋の戦いは、数で勝る連合軍のほうが戦死者が多かったってホント?
なんかの本に、伊達軍戦死者400人弱、連合軍戦死者900以上って載ってた
ような…うそクセぇけど、事実なら芦名佐竹主力の連合軍ってかなりの
ヘタレ?


53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 23:14:26 ID:DelhEs1T
100%妄想ネタかと
はっきりした数が書いてある資料があるなら見てみたい
そもそも兵数からして謎だからね
名のある武将が討ち死にした話しもほとんどないし
数に勝る連合軍がひしひしと押して行って
伊達が高倉と観音堂を防衛線に抗戦した所で日が落ちたってだけの話しかと
合戦の詳細が少な過ぎるし、獲った首級についての話しが殆どない
要するに特筆する事があまりなかったと言う事だろう

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 23:34:38 ID:SeKO8Nwj
本宮の戦場址を見たが鬼庭の墓あるのみ。付近の寺に連合軍の墓が800程
あったとの記録在り。場所は高速の本宮で降り左を直進。左の田園地帯に看板ある。

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 23:55:38 ID:RXO9aoYJ
東北地方も、日本海側以外はたいして雪降らない。
むしろ、山陰地方の方が雪は降る。

北だから雪が降るんじゃなくて、
日本海側は寒いのに湿度が高いから雪が降るのだ。



56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 00:02:55 ID:dxIangwl
お願い、山陰なんかに住んでる可哀想なmJ+66/s6をイジメないで!!

57 :だめ押し:2006/08/19(土) 00:06:21 ID:cC25oZ1N
気象庁発表最深積雪

仙台 (仙台市宮城野区) 28cm
鳥取 (鳥取県鳥取市) 95cm



http://www.data.kishou.go.jp/bosai/report/1984/198401/198401yuki_b1.html



58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 00:48:38 ID:AgCz4TMZ
>>57
引用するならどっちかっつーと

山形 77cm
福島 39cm
若松 60cm
白河 62cm

この辺だろうが。


山陰
松江 53cm
浜田 17cm
米子 38cm
境   62cm

都合のいいのだけ抜いてんじゃねーよ。何がダメ押しだ。


>>56
ただの煽りなら消えろ。

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 01:28:36 ID:mpfBN9aE
まあ実際住んでる人間としては、ひどく積もってないかぎり、街道がそれなりに整ってれば行軍はそんなに困難ではないと思う
当時の東北人も雪にはなれてたと思うしもちろん雪のための撤退はあり得るが

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 02:19:48 ID:W1ly2b26
何気に謙信っていつも冬に関東進出してるけど
雪深い越後でどうやって行軍してたのだろうか…
水上に抜けるあたりで凍死しそうだけどw

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 11:50:34 ID:6hVy6TU+
陰毛
陰部
山陰

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 12:50:33 ID:8TVG5LY7
山越えするんじゃないなら、雪が大きな障害になることはないでしょ
冬場に雪がずっと残るとは限らないし。
そもそも「連合軍」が成立している、ということは、
少なくとも人取橋の戦場に軍勢が集結する妨げになるほどの積雪量ではなかったと言える。

連合軍総司令官が横死したのが事実だとしたら、そこに謀略があった可能性も想像されるだろう。
そういえば、芦名盛隆も不自然な死に方だね。
いや、飛躍した想像に過ぎないのだけど、そのほうが話としてはおもろい

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 14:50:12 ID:PrA1M0ts
連合軍の総大将てのは存在しないよ
蘆名盛隆死後嫡子亀王は僅か2歳で盛隆の正室と会津四天が補佐する形になっていた
元々各大名は蘆名や佐竹の従属国じゃないから
あくまで立場的に協力者に過ぎない
だから誰かの命令で動いていたわけじゃない
会津四天が合議して各大名に相談すると言う形だったようだ
ぐだぐだになったのはこの辺りが要因だろう


ちなみに盛隆は寵童だった大庭三左衛門に殺された
盛隆は男色家で初め大庭を見て気に入り小姓奥番にしたのだが
次第に大庭に興味を失って相手にしなくなったのを根に持たれ刺し殺された
と言う無惨な顛末…

64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 17:08:06 ID:k6JN2xIK
てゆうか農作業が一段落して兵糧が沢山ある冬こそ戦をする時期でしょ

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 17:13:51 ID:AgCz4TMZ
>>64
逆に少ない時こそ攻めるってのもあるんじゃない?
敵地で稲穂狩りしたり略奪すればいいわけだから。
収穫期に攻め込まれるのが一番嫌だろうね。

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 18:09:59 ID:r5SK0OFS
兵農分離してなきゃ、農繁期は出兵できないべ


67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 18:14:06 ID:ZqgTosxl
そだね。
自分とこの稲刈りの作業ができない。

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 19:00:32 ID:PrA1M0ts
敢えて農繁期に出陣して青田刈りや焼き働きする手もあるが
あまり好ましい手ではないな

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 19:32:50 ID:7zdTbrNR
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    ヽ,/`ヽヽト、 ´  {,.○-`‐‐ 、,.-ト|    ,ノ< ハッハッハ! 見ろ!
     ∧ ̄ ゙i,   `ヽ,r'´      ノ.  ゙、--‐''´| \  人がゴミのようだ!
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  .;".;": ..;.;".; ζ /_.;_/| .;".;", _   \\\  .;".;.;".;":.
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70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 01:26:50 ID:uBRbvvF4
本宮は市に昇格するんだよな

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 03:01:37 ID:rk2jYTlX
冬に戦争しないのは雪だけじゃなくて寒さもあると思うのですが・・・

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 04:24:14 ID:obzFFP9T
生温い
氏郷公は真冬の会津で雪の降る中、裸に鎧だけ着て一揆勢を蹴散らした
一揆方も泡食って逃げ出しました

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 10:18:26 ID:kJ+m9rla
冬だろうと夏だろうと合戦はあるんだから、できないという話がどこから出てくるのかわからない。
もちろん季節によるメリットデメリットはあるが、やろうとしてできないわけじゃない。
青田がりや麦薙といった敵地の田畑を荒らす戦術は普通に記録にあるし、農繁期だから出兵できないということもない。
もちろん自領の収穫も損なわれるのだが、実際にやっているし。

それより問題は
連合軍が後世の目で見ていかにも中途半端なタイミングで撤収した理由では?


74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 11:25:05 ID:rk2jYTlX
>>72
え、名生城に引き篭もってただけじゃないんですか?

75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 13:44:53 ID:wyyp04I5
色んな意味で恐るべし葦名四天

天正十三年夏の頃葦名亀王殿四歳にて逝去し給ひけるに依りて
四天の宿老葦名十六人の御一家執権金上遠江守を始めとして
小田山城に集まり御名跡の儀評定あり
四天の宿老申されけるは政宗の御弟政道を御養子に被成候はば
伊達と葦名といよいよ和睦し国の便りともなり日々葦名の御家繁盛せん
其上越後の上杉景勝公は御一家といひ関東の北条氏政は同じ平家の流れたり
然ば是と心を合わせ武田信玄を責亡し都へ討て登りなば
終いには葦名の天下とならんこと何の子細か候はん

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 23:19:07 ID:eRL+udP+
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。

※謙信自身が敗北を認めている書状↓
 晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
 かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日                  虎(花王)
[三洲寺社古文書]


【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。

1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。

上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。

謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである

本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 17:57:11 ID:zbfklkqv
つまりあれだ
連合軍は大きな戦果をあげながら、寄せ集めゆえに長期間指揮系統の統一を維持できずに瓦解した。
政宗の立場では、連合軍が結成された段階で既に政略・戦略面で負けているといえる。
いわば、避けなければいけない道だった。

だが、その死地から、大きな損害をだしながらも巻き返しができる範囲に損害を抑えてたうえで、生還したことは、ある意味、勝ちといえる。
そしてこれは怪我の功名だが
連合軍をもってしても打倒しきれなかったということが、以後の反伊達の勢力が足並みを揃えられなくなった要因の一つではないか。

いわば、合戦に負けても、事後処理で勝敗がひっくり返されたケース。

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 18:53:13 ID:xfZkrCYR
俺は政宗が一番好きだが、勝ちとまでは言わんでくれ
どんどん伊達好きの肩身が狭くなる
ただでさえキチガイが多いのに・・・・・・

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 19:58:57 ID:Zz5nYoz2
東北では、盆や正月などにお萩(ぼた餅)と一緒に
豆打餅(ずだもち)を作って、仏壇や墓前にお供えし
先祖を供養する。
豆打餅は、文字通り茶豆をすりつぶして作った粒餡を
餅にからめた、東北では一般的な料理で、地方に
よって、ずんだもち、ぬだもちなどと呼ばれている。
しかしながら、仙台人(宮城県人)は、ずだもちのことを
甚太餅(じんたもち)と呼び、伊達政宗の家臣の甚太が
陣太刀で豆を潰して作った餅を政宗公に献上したのが
起源で、仙台から近隣に広まったと捏造しているのである。
誰だよ甚太って?!!!
このように、仙台人は近隣県の文化をパクったり、
劣化コピーしたり、捏造しまくっているのである。

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 20:29:06 ID:nZlbmeTK
功臣、伊達成実が出奔したときの事
屋代景頼に成実の一族郎党を皆殺しするよう命じて殺してしまう。
後に成実が帰参した時には政宗はその責任を屋代景頼のせいにしてあろうことか追放してしまう。
(美談だが成実は屋代景頼に罪は無いと知っており彼と妻子たちの面倒を見てあげる。
どっかのバカの一族なのに偉い違いである。)
ttp://www.marinenet.co.jp/jinpati/lastsong/sigezane.html

家康対三成の戦いは長期間に及ぶと読んで和賀忠親に
南部領で一揆を起こさせておきながら、その読みが見事に外れ
和賀の一揆を扇動したのは伊達とバレると、あろうことか殺してしまう。
南部は最上に援軍を送るなど味方なのにその空き巣を狙う政宗はとんでもない外道である。
ttp://aonoao.opal.ne.jp/lesson/hist/ieyase2.html

大阪の陣では
6千石程度の神保相茂が後藤又兵衛を破るなど奮戦しているのを見ると
政宗は手柄を奪われたと逆上して、戦闘を終えた神保隊を背後から襲撃し、
相茂以下騎馬武者30名、雑兵200名をほとんど一方的に殺戮した。
政宗は口先八丁を駆使し罪を逃れる事に成功しているが、
この大人気ない行為に島津氏をはじめとする各大名家から非難が殺到した。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BF%9D%E7%9B%B8%E8%8C%82

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 20:30:01 ID:wW9K7Hpl
功臣、伊達成実が出奔したときの事
屋代景頼に成実の一族郎党を皆殺しするよう命じて殺してしまう。
後に成実が帰参した時には政宗はその責任を屋代景頼のせいにしてあろうことか追放してしまう。
(美談だが成実は屋代景頼に罪は無いと知っており彼と妻子たちの面倒を見てあげる。
どっかのバカの一族なのに偉い違いである。)
ttp://www.marinenet.co.jp/jinpati/lastsong/sigezane.html

家康対三成の戦いは長期間に及ぶと読んで和賀忠親に
南部領で一揆を起こさせておきながら、その読みが見事に外れ
和賀の一揆を扇動したのは伊達とバレると、あろうことか殺してしまう。
南部は最上に援軍を送るなど味方なのにその空き巣を狙う政宗はとんでもない外道である。
ttp://aonoao.opal.ne.jp/lesson/hist/ieyase2.html

大阪の陣では
6千石程度の神保相茂が後藤又兵衛を破るなど奮戦しているのを見ると
政宗は手柄を奪われたと逆上して、戦闘を終えた神保隊を背後から襲撃し、
相茂以下騎馬武者30名、雑兵200名をほとんど一方的に殺戮した。
政宗は口先八丁を駆使し罪を逃れる事に成功しているが、
この大人気ない行為に島津氏をはじめとする各大名家から非難が殺到した。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BF%9D%E7%9B%B8%E8%8C%82

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 20:40:38 ID:wW9K7Hpl
「佐沼城のなで斬り」
政宗一揆を扇動 → 秀吉激怒 → 政宗磔持参で泣き入れる
 → それだけじゃ足りないので自分で煽った一揆勢の民百姓2千人を皆殺し
 → 政宗は一揆勢を鎮圧した正義漢のふりをする

『成実記』より

「政宗の鼻取り」
『天正日記』に「首8つ、生け捕りあまた、取り申され候」
「鼻24、生け捕り20人あまり、取り申し」など、「生け捕り」とともに「鼻取り」の記録。

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/23(水) 09:00:38 ID:5qAxjsHb
きっと82は
斉藤道三も松永久秀も織田信長も豊臣秀吉も武田信玄も長曾可部元親も
みんな嫌いなんだろうね。

本当のところは、
「〜〜だから嫌い」
ではなく、
「俺が嫌いなのをみんなに同意がほしいから、
〜〜というエピソードを羅列してみた」
というところだと見透かされているよ。

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 14:13:22 ID:GCpKo5RK
佐竹が兵を返さなかったら滅んでたかもね。
大崎攻めも失敗してるし、あんまり戦に強いイメージないな。

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 15:34:38 ID:x906KdVe
>>84
佐竹が兵を引いても芦名中心の連合軍の総数は伊達を凌駕していたはず。
まして、戦死者の数で下回っていたとはいえ、鬼庭左月など幹部に戦死者を
出し、満身創痍の伊達軍が相手なら普通に力攻めで撃破出来たはず。
そうしなかったのはなぜ?教えてエロイ人。

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 15:44:16 ID:z8FzyLij
大崎攻めは指揮してないはずだが
それに総大将留守政景の岳父、黒川晴氏が寝返るという誤算もあったしな

87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:31:55 ID:HZLYR49z
情けない言い訳

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:39:01 ID:z8FzyLij
>>87
アンチ必死すぎ ^^;

89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:43:23 ID:3vshDa2Z
政宗の実質勝利だよ
そのあとの展開考えると

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:47:37 ID:HZLYR49z
政宗は戦に強い印象ないっしょ
たいした戦してないし
優秀な政治家だろ

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:49:25 ID:3vshDa2Z
戦に強いとか
優秀な政治家とか
それは感じない
人取橋は敗北じゃないよと言ってるだけ

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:50:18 ID:HZLYR49z
なら同意見だな

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:52:44 ID:0gjKrTg/
大崎合戦の直後に結ばれた和睦条件が、「大崎領は以後伊達家の
馬打ち領とすること」。大崎家はこの条件を丸呑みにするしか
存続の道はなかった。

94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:54:03 ID:HZLYR49z
そんなの国力考えれば当然
稙宗みたいな支配の仕方だがw

95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 21:06:37 ID:z8FzyLij
国力とやらを考えれば伊達家に反旗を翻す時点で・・・・・・という流れになるが

96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 23:47:28 ID:7nN0tn9O
そこは、うほっやらないか?と吹っかけた最上の政治力でしょ

97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 06:18:01 ID:fRkNgk/8
政宗って戦ではイマイチでしたね

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 07:23:49 ID:fPeshML0
政宗が戦に強くない?
野戦上手の佐竹義重相手に、人取橋・窪田の戦いで劣勢で引き分けに持ち込み
佐竹が消えた途端、スリアゲハラの決戦では、あっさり葦名を壊滅させちゃうん
だから鬼の部類だろ。だいたい独眼竜なんて命名されるのは戦に強いからだと思うけど。
義重しかり、謙信しかり、信玄しかりでね。


99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 09:47:24 ID:8EJb6VEs
たいした目的がない戦が引き分けになるのは良くあること。
実家に逃げ帰るような当主で内部崩壊してた葦名に
勝った事なんて全国見渡したらたいしたこと無い。

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 10:07:45 ID:ScWZkyqR
奥羽の名門の芦名家が、赤子の手を捻られるように政宗に滅ぼされ、
奥羽六十四群中三十余群が伊達家の傘下に入った摺上原の戦い。
秀吉には恐ろしく衝撃的な事態だった。
政宗の謀略工作に翻弄された佐竹義重は、有効な葦名支援すらできずに、
なすすべもなく、すごすごと逃げ帰っている。


101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 12:00:51 ID:bRUUzlZJ
政宗が負けた戦を教えてくれるか
勝ちと引き分けしかないんだったら、強くないという結論にはならんと思うが
相手が弱いからとか言うのは理由にならん気がする

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 12:09:26 ID:bRUUzlZJ
書き加えると、相手が弱いから強くないと主張を展開するなら、
強い相手と戦って負けているという事実が必要だと思うわけだが

103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 12:26:43 ID:W1APvKU/
奥州では伊達氏がダントツでデカイ大名だったからな
周りに雑魚ばかりだと評価むずかしいね

104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 14:06:18 ID:xc26LwJr
50万石の伊達と3万5千石ぐらいの大内が戦ったらどっちが勝つか
50万石の伊達と4万石の畠山が戦ったらどっちが勝つか
50万石の伊達と30万石前後で内乱と分裂が進む葦名が戦ったらどっちが勝つか
常識的に考えれば簡単に結果の予想がつく

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 14:43:13 ID:v1+JGKyr
大内も畠山も葦名の庇護下にあったのに、滅ぼされてる。
葦名も佐竹、相馬、岩城等の共闘者がいたのに滅ぼされてる。
個々の石高だけで計算するのはどうかな。

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 14:53:29 ID:xc26LwJr
それが政治ってもんだろ
いかに味方を増やして敵の力を削ぐかと言う事だ
優勢だからって正面から当たる馬鹿もおるまい
ちなみに南奥州全部合わせて伊達と同じぐらいの国力だからw

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 14:58:13 ID:0y4R0CQK
葦名がボロボロすぎたからな
盛氏から当主何回交代してんだよ
内乱も多かったしあれじゃまとまってるわけない

108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 15:02:43 ID:ScWZkyqR
>>104
相馬家はわずか6万石に過ぎなかったが、伊達家とは三十回以上戦っても、
最後まで領土を死守しぬいているが?

また政宗と隣り合わせになった大名は、心理的、軍事的に、逆に政宗から
圧力を受け翻弄されまくって衰退する。
90万石の蒲生は、氏郷が死ぬと息子秀行は12万石に左遷。
120万石の上杉は、会津から一歩も動けず、30万石へ転落する。
政宗は、たかだか58万石に過ぎなかったが、上杉などは終始伊達を警戒し、白石城すら
奪還できなかった。

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 15:07:57 ID:v1+JGKyr
>>106
伊達は最上にも大崎にも気を配ってなきゃならないよ。
でも彼らに手出しさせなかったのは政宗の政治力だよね。
背後から襲われてたら相当危うかった。

110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 15:10:26 ID:bRUUzlZJ
>>107
そこを上手く突いて猪苗代を寝返らせたり、富田美作を寝返らせたりしてるから、
つまり>>106の言う政治力が政宗にあったんだろう

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 15:48:58 ID:jSKdUL20
>>100
>>108
はいはい
秀吉とか天下人を絡めないでくれ
おまえみたいな妄想小説好きが
他の政宗好きに迷惑かけてる

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 16:38:13 ID:bZ+jQ9Jh
相馬氏と伊達氏の争いは、稙宗と晴宗の争いの番外編みたいなもの
稙宗がいなかったら、相馬氏は伊達氏から宇多、伊具、亘理郡とれなかったし
その後の奪い合いも、その延長上でやってたから特殊

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 16:50:45 ID:2twwhMUk
まあ、確かに蘆名は恐ろしく間が悪かったな
盛氏は嫡男盛興に家督を譲ったが28歳で急死
やむなく盛氏が黒川に戻り二階堂氏から盛隆を養子に入れて家督を継がせた
だが盛氏死後、会津四天松本氏などをはじめとする反盛隆勢力の反乱が相次ぐ
黒川城を占拠される騒ぎになったが次々反乱を鎮圧し一応の安定を取り戻しつつあった
そして金上遠江守を上方に遣わし織田との親交をはかり三浦介を任官される事となる
蘆名は三浦一族で三浦介を得る事は三浦宗家を名乗る事を許されたわけで
三浦復興と言う事で家中は大いに盛り上がりを見せたが
盛隆が小姓の大庭とのいざこざから殺害されてしまう
享年24歳、嫡子亀王丸がいたが1歳に過ぎず家中はまた混乱する
その混乱に拍車をかけるように亀王丸は3歳で病死
主を失い慌てて次期当主をどこからか迎える事となった
蘆名一族の金上派は佐竹、会津四天王は伊達を推して合戦に及びそうになるほど揉めたが
結局佐竹から義広を養子を迎える事に決まる
しかし義広もまだ11歳、初陣も済ませていない状態で
更に金上・大縄派と会津四天王派での対立は深まる一方
猪苗代氏も伊達派と蘆名派で揉めて親子で合戦
領内外で混乱は広まる一方だった

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 16:55:47 ID:xc26LwJr
>>110
寝返らせたと言うより寝返って来たと言うべきだ
葦名家との確執で立場が悪くなったから近隣で力がある伊達に取り入った
別に政宗だからどうと言う事じゃない

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 17:02:34 ID:ScWZkyqR
111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 15:48:58 ID:jSKdUL20
>>100
>>108
はいはい
秀吉とか天下人を絡めないでくれ
おまえみたいな妄想小説好きが
他の政宗好きに迷惑かけてる

>>111
 ID:jSKdUL20=おまえは論外だから。「妄想小説」云々等、支離滅裂だし。
 政宗好きを装った、程度の低い単なる煽り厨でしかないし。

>>112
「特殊」も何も、天正9年の伊達政宗の初陣が対相馬戦だからね。稙宗と
晴宗が遠因をつくったのは事実で、亘理へ相馬義胤が攻め込んできたため、
その防衛戦として出陣しなければならなかった。十五歳の武将が、戦に
手慣れた相馬の「矢形の備え」を崩すのは容易なことではなかったことは
簡単に推測がつくだろう。



116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 17:15:04 ID:bRUUzlZJ
>>114
しかしそれ以前に政宗が力を示していたから伊達家に寝返ってきたわけだ
そう考えると寝返らせたという表現は間違っていない
政宗に寝返ったんだよ

それに猪苗代盛国は既に隠居した身で、蘆名家中での立場を気にする必要はなかった
息子盛胤は蘆名に忠誠を尽くしてたわけだし

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 17:53:54 ID:HYvz1EQ+
相馬氏の強さは殿様自ら魚燐陣形の前にて突撃するから怖いな。


118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 17:54:14 ID:xc26LwJr
>>116
政宗が、て言うより伊達は昔から奥州一の大国だろ
別に晴宗でも輝宗でも構いやしない
ちなみ盛国は隠居したのが原因になってる
隠居後家中では相手に去れなくなり更に黒川に行った時義広にも軽ろんぜられたのに腹を立てて
盛胤が黒川へ出仕してる間に猪苗代城を襲って乗取った
そこに盛胤が帰って来て合戦になった
激戦になったが地元の僧侶達の仲裁により休戦
更に義広の命令で盛国は謹慎を受けた
当然盛国は面白くなく、この際は伊達に組して恨みを晴らしてやろうと
同僚の長沼氏と語らって伊達に内通した

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 18:16:34 ID:bRUUzlZJ
>>118
だから、それには結局蘆名と事を構えるっていう政宗の方針が必要だったわけだろ
大内、畠山と食いつぶして猪苗代領付近まで影響力を持ったからこそ政宗を頼れる

それから伊達家が周辺で一番の大国だったことは俺も認めるが、
伊達家内部にだって混乱はあったんだぞ?
政宗派と竺丸派が対立してたのは言うに及ばず、輝宗の代では中野氏が裏切ったり、
最上家の策謀で鮎貝宗信が裏切ったり、伊達家も政宗の家督相続時代には結構衰退してた
その上周囲をほぼ完全に敵対者に囲まれて相馬家に侵入を許したりしてたんだよ

だからこそ一族の石川氏なんかすら、まぁ位置的な関係もあるが反伊達となったんだ
こんな中で誰が伊達家を頼るよ?
この状況を打破して勢力を広げたから政宗を頼ったんだろ
盛国の選択肢の中には矛を収めて大人しく隠居するってのもあるわけ
政宗がいたからこそ内通したんだよ

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 19:31:11 ID:bHqKbT+k
伊達厨って何でもスゴイスゴイの一点張りなんだねw
宗教の勧誘みたいだ
芦名ってそんなに崩壊してたのか
この程度を誇ってるようでは島津の足元にも及ばないなw

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 19:39:28 ID:xc26LwJr
>>119
大人しく隠居するぐらいなら始めから反旗翻さないだろw
まして葦名家中の混乱でろくに援軍もだせずに
大内や畠山が落とされて孤軍と化した阿子島・高玉も呑み込まれた状態じゃ伊達に付こうと考えるのは普通の事
別に政宗の謀略能力云々は関係ない
それに地理的にも伊達以外に頼れる所なんてないしw

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 20:00:28 ID:v1+JGKyr
>>120
まともに反論もせずにそう言われてもね。
笑っちゃいそうですよ。

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 20:03:00 ID:bRUUzlZJ
>>121
自己矛盾孕んできてるぞ

>大内や畠山が落とされて孤軍と化した阿子島・高玉も呑み込まれた状態じゃ伊達に付こうと考えるのは普通の事
>別に政宗の謀略能力云々は関係ない
>それに地理的にも伊達以外に頼れる所なんてないしw

政宗が勢力拡大したからそれに従おうとしたって、君自分で認めちゃってるわけだが
それはつまり猪苗代盛国を政宗が寝返らせたということだ

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 21:25:48 ID:xc26LwJr
>>123
だから何度も言ってるだろ
葦名の支援があってこそ大内や畠山なんて小勢力が対立できたんだよ
それが葦名の衰退で会津領内維持で手一杯になってしまっては
伊達の10分の1にも満たない大内や畠山が守り切れるわけないだろ
余程無能でもなければ簡単に踏み潰せる
それとも伊達にとってはそんな事でも異例の大勝利なのか?w

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 21:52:31 ID:bRUUzlZJ
>>124
君は今までのレスをちゃんと確認してるのか疑いたくなるな
他の人間が言ってることもごっちゃにして喋ってないか
俺にアンカーつけるんなら俺の言ったことに対してのみ反論しろよ

まずそのレスで盛国が政宗の威に寝返ったという反論が全くなされていないのに、
何故>>123にアンカーをつけているのか
とにかく「政宗は凄くないんだ」ということを言いたいが為に、内容構わず噛み付いているようにしか見えんぞ

で、一応>>124にも答えておくと、俺は>>101-102
『「相手が弱いから、政宗も戦は強くない」とは判断出来ない。
政宗が強くないと主張する為には政宗が強者と戦って敗れたという事実が必要ではないか』
としか言ってないわけだが
煽りのような文句を考える前に、冷静になって反論内容を精査しろよ

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 21:54:19 ID:8b+NM7MY
小次郎の葦名相続擁立から猪苗代とは誼を通じてたよ

127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 22:04:39 ID:xc26LwJr
>>125
すまん
その話は論点ずれすぎててレス返す気も起きなかったw
まずだな
盛国と盛胤・葦名家との確執がなければ寝返りも何もないだろ?
そういう事だ
十分理解できるよな?

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 22:17:02 ID:bRUUzlZJ
>>127
「その話は」も何も・・・君と俺は「その話」をしてたわけで・・・
全く関係ないこと言われても困るわけだが

それから君の言ってることは理解してるって
堂々巡りにしてるのは君なんだが

確執があったから寝返った→それは確かだろうが、政宗の進出がなければ伊達家には寝返られなかった→確執があったから寝返った

俺は盛国と盛胤、蘆名家の間に確執があったことは認めてるんだよな
それを認めた上で、「政宗が進出したから、政宗が寝返らせたと言える」と言ってるわけだ
そうすると君は「大内、畠山は小物で、蘆名の後ろ盾がなければ潰されて当然」
と、意味不明な展開に結んでるんだよ


ここは理解出来ない

129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 22:21:56 ID:Hy4W0Rxr
伊達が奥州随一の勢力だったから政宗の勢力拡大がうまくいって当たり前、という論法の問題点は、
先代、先々代で伊達氏が対外的に劣勢だった件だろう。
もっとも、勢力拡大に消極的だったという理由付けは可能だ。むしろ権臣を排して内部体制をある程度まとめたからこそ、政宗は積極的に動けた(その点で一番のネックが実の母、というのは泣ける)ともいえるが、その条件を誰でもが生かせたのだろうか?

あと、ごくごく一部だとは思うが、
国力で上回っているから勝って当たり前、
というのを歪んだ論法で拡大解釈して、
ゆえに優れた武将だから勢力を拡大できたと証明できない→
すなわち優れた武将ではない→
すなわち無能あるいは愚将、
というヤツかいるようだ。
ネタとしてもつまらないし、
本気でいっているなら、バカすぎるから、生みの親をPL法に基づいて告訴すべき。


130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 02:54:04 ID:mVw32yu8
大内を降して、畠山、蘆名、二階堂を滅ぼし、
猪苗代、長沼、白河、石川、田村家中の相馬派、大崎と屈服させていった。
相馬、岩城も風前の灯火だし、北条とも敵対関係にある佐竹とて危うかった。
この辺りが降されると間違いなく、最上、葛西といった同盟関係にある連中も実質的には従属関係となる。
まあ…最上は当主がやり手だから、そうそう下手は打たないだろうが、
義光が政宗に対して弓引く等とは考えにくくなり、共闘の道を歩むだろう。
伊達、最上、葛西が連合すれば東北に敵はいなくなる。


秀吉の小田原征伐によって後半は妄想の中の出来事となったが、
やはり政宗が戦上手だったことは疑いもない
これを否定する論理が周囲が弱小揃いだった〜などとは笑止千万
それでは>>129のいうとおり、政宗の戦上手を否定できてはいない

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 03:08:07 ID:mVw32yu8
誤解してほしくないのは、私は別に政宗が天下を取れるとまでは考えていないこと。
ただ、政宗を中心とした勢力が東北を制覇するくらいの力量はあったと思っている。
願望としては天下を治めるほどの器量であってほしいのだが。

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 08:05:37 ID:K4aQ3TZA
晴宗が対外的に劣勢だったのは仕方ない
大崎の旧勢力、葛西の旧勢力などの力を借りたし

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 08:32:00 ID:fVsRTkOI
最上義光の狙いは、伊達家の弱体化。最終的には政宗の廃嫡と小次郎擁立。
小次郎一派には、重臣の国分盛重も一枚かんでいたといわれる。

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 09:28:01 ID:WrrrJHE7
散々荒らし回って本領安堵って
あの馬鹿は何がしたかったんだよ
と奥州の連中はツッコミたいところだろうけど
結果的には政宗も20万石ぐらいは領地増やしたし
先祖の七光りのボンクラにしちゃ頑張った方だよ

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 09:46:15 ID:omZTRqDn
>>134
秀吉さえいなければ天下取れたんだけどね。ほんと惜しいよね。


136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 10:07:49 ID:WrrrJHE7
>>135
織田系列大名、徳川、北条、上杉、毛利、島津、長曽我部あたりがいなければ天下とれたのに残念だったね

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 10:19:23 ID:k6tZ4usz
なんか伊達も蘆名も大内兄弟に翻弄されたって感じだね
かなりのくせ者だよ
あれだけ無茶やってちゃっかり生き延びてるし

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 10:57:34 ID:vR29xIUH
前沢が高級牛肉の産地になったのは初代領主大内定綱のおかげでしょ

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 12:43:12 ID:S9tykyFK
第1次(1585)も第2次(1586)も
大内の寝返りで起きた人取橋の戦い。

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 14:15:00 ID:K3f0wRuI
定綱も義継も政宗のおかげで有名になれたんだから感謝するように

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 14:22:13 ID:k6tZ4usz
人取橋の後、大内が弟の片平と共に伊達に寝返りたいと申し込んで政宗も許可したがいつになっても現れず
それどころか突然伊達成実の苗代田城を急襲して攻め落とし城主の木内主水を殺害
当然政宗も成実も激怒したが
「伊達に逆らう気なんてありません。これは蘆名を油断させる演技ですよ」
とか言って軽く済ませてしまった上に寝返るから領地くれくれ要求
政宗も渋々承知したけど結局この時は大内一人がのこのこ米沢に来ただけで寝返りに至らず

大内はかなり神経図太い…と言うか鬼だな
殺された苗代田の守備兵や木内の立場は一体…

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 17:55:08 ID:S9tykyFK
親父死亡の遠因になった割にはあっさり許してる。

朝鮮出兵の渡海武将に挙げられた時に
ヤダと言って反旗翻せば面白かった。

143 :奥州王:2006/08/27(日) 19:32:09 ID:ISuGmI2s
スカパー、時代劇専門チャンネルで9月19日から!独眼竜政宗が放送するよ〜嬉しい!

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 19:44:19 ID:S9tykyFK
煩悩丸もかくありたい。
猫御膳の「討ち取ったりィ〜」が印象的。

総集編では人取橋は完全勝利みたいな扱いだったな。
山岡小説みたく若気の至りで合戦して虎哉にゴルァ!
されるような流れの方が好きだけど。

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 21:26:51 ID:zR736IID
マチャムネ(´●Å・`)

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 21:27:48 ID:zR736IID
マチャムネ…(´刀・`)

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 21:36:58 ID:PcUE2Ixr
(●ω・`)独眼龍政宗なんて儂がガキの頃にやってたから殆んど覚えてない。
スカパーで、やるのか〜家は観れんな。


148 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/08/27(日) 21:58:25 ID:zI5Of/a8
「一生の不覚」というセリフが毎週あったのはご愛嬌。

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 02:11:21 ID:TuKDp5s1
「命を粗末にする奴なんて大嫌いだ!」が毎週あるよりいいじゃん

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 02:54:57 ID:SAxfoGEs
何故政宗は大内を許したんだ?
性格からすれば踏み潰しそうなもんだが

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 12:28:55 ID:OxlhPHxg
政宗が潰したのは畠山、芦名、二階堂、大崎くらいかな
他は家臣にするなり逃がすなりしてる
二階堂はそもそも既に当主が居なかった訳で
けっこう寛大な人柄じゃないですか

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 13:13:28 ID:V9tSmALg
どこがだよ
その他って白河・相馬・石川しかいないだろw
ていうか撫で斬りやったのは大内の城だぞ
まあ、高玉もだけど

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 13:19:50 ID:yqXucnVK
政宗は殺した方だな
まさに信長の劣化版だ
大抵はそこまでやらんし
時代に助けられたな
奥州仕置があと数年遅かったら家臣に殺されてたよ

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 13:38:54 ID:SAxfoGEs
>>151
大崎を滅ぼしたのは秀吉
畠山も国王丸は見逃してる(後に蘆名義広に殺されるが)

>>152-153
潰した家よりは残した家の方が多いな
自分の支配に都合が悪い家は潰して、そうではない家は存続させたっていう、一般的な思考だ

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 15:08:38 ID:e6/OyoOS
>>143

 国分盛重(輝宗の弟,政宗の叔父):イッセー尾形
 最上義光(最上家当主、義姫実兄):原田芳雄
 駒姫(義光娘、秀次側室):坂上香織
 大内定綱(大内家当主):寺田農

脇役が印象に残ってるな。寺田の大内は小狡さがよく出てた。


156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 15:25:00 ID:V9tSmALg
大内備前より人望ない政宗もどうかと思うが

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 22:26:55 ID:MprIBen+
だめだこりゃ
by鬼庭長介

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 03:12:16 ID:nBlibyrn
当時消防だったからドリフじゃないいかりや長介は衝撃だった。
人取橋の突撃のシーンでは
ジジイがかっちょええ!と初めて感じた。

159 :名無しさん:2006/09/07(木) 16:01:25 ID:GbDHCq7i
人取橋の戦いで、お台場レインボーブリッジ署の長さんは、なくなった。2004年のことだ。人取橋=レインボーブリッジ。また、亡くなる前に、駄目だこりゃと言った事により、敵武将もこけた。

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 17:35:10 ID:ow8GsgEh
佐竹義重3万VS政宗7千(人取橋)
佐竹義重4千VS政宗1千(窪田) 

これで互角なんで、義重5千>>北条2万なんで、
北条2万を、政宗なら2500もあれば優位に戦えてしまうことになる。

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 17:39:42 ID:7KlVhxKC
総動員数6千程度の佐竹がなんで3万いるのかと

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 18:55:43 ID:z6NLQmGh
人取橋に義重は出陣してないって散々言われてるはずだが

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 19:16:34 ID:7KlVhxKC
奥羽永慶軍記では義重が出陣した事になっていて
やたらめったら大活躍してるw

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 19:41:19 ID:z6NLQmGh
「夜叉羅刹ともいいつべし」ってやつだろ?
まぁあれは軍記物だしな

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 21:25:33 ID:F9ViLa5z
まぁこの奮戦で名を高めたってのはあるからねぇ。失ったものもあったが
得たものも多いんだろな。
輝宗の時に各城落とされまくってるから、ここは形だけでも勝たなきゃ伊達やってけねぇ。

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 17:18:05 ID:F9LqfODz
政宗の場合オヤジ殺してるので、まあ多少政宗に家族を虐殺されても
まあ悪気があったわけじゃないし仕方ないかくらいの気持ちで従えるのだろう。

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/16(土) 00:42:11 ID:ulKrLO2A
まあ、義重にしてみれば、もっと優先順位の高い重要案件はいくらでもあったからねぇ。
人取橋が御家の一大事というほどの切迫感は無かっただろう。

168 :名無しさん:2006/09/24(日) 22:19:59 ID:iSJbwwqX
あー、それで、東北の秋田には、畠山姓が多いんだ!

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/24(日) 23:41:13 ID:9HyY2wUG
伊達の刺客に佐竹の大将が消されて、取るものもとりあえず
遁走したんだろw で、連合軍は瓦解。格好がつかなくなって
家臣に刺されたとか、佐竹領が侵入されたなどへたな理屈
つけてるだけで w


170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/27(水) 10:34:20 ID:YQi15wKF
政宗自身も拾った勝ちってのは認識してるようだが
後年義宣が同席したところで「いやーあん時は俺はもうダメかと思ったよ
だけどなんか超ラッキー」みたいな感じで自慢し、義宣が苦渋を舐めている
ところをみると、この戦勝は伊達に有利に働いたというより佐竹に極めて
大きいマイナス要素として働いたらしい。そりゃ勝ってるのに些細事で
国許に帰ってしまうような将では頼りになるはずがない。

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 01:50:32 ID:NZS1JplO
でも佐竹も戦争目的を達成出来たかというと、そうでもないんだよね
半月後には畠山滅ぼされてるし
勝ちではないが、負けでもなく・・・負けに近い引き分けって感じじゃないかな

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/30(土) 09:48:15 ID:YPv4lE1z
勝ち負け、ということになると伊達の勝ちということになってしまう。
もっと詳細に表現するなら、佐竹連合軍が伊達相手に終始優勢に
戦を推し進めていたのだが
佐竹が撤退したために伊達の勝ち。

たとえばなんというか、例えて言うと
沖縄まで占領したアメリカ軍がマッカーサーが死んだという
理由で全軍アメリカ本国に帰還、なんかよくわかんないけど日本軍はまあ
アメリカ軍いなくなったしということでシンガポールとかそのまま占領という感じ。

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/03(火) 12:45:30 ID:PTM4f4/U
>>172
俗に言う「芝居を踏む」ってやつだな。
川中島における上杉が優勢に押していた佐竹、武田が最終的に戦場を支配した伊達に相当する感じがする。

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