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戦国時代のアイヌ

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 05:31:39 ID:gUkdzmKN
語ろう

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 05:51:27 ID:02jk5nUj
わかんねーよ

3 :eoe ◆i6jwvBOktc :2006/07/25(火) 06:46:54 ID:ID4+mlZl
細川タナサカシ

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 06:52:12 ID:qwX/TMiy
語ろうってかお前が知りたいだけだろ>>1

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 12:42:13 ID:mH4fhvS0
ハシタイン
チコモタイン

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 13:07:13 ID:mH4fhvS0
1482
夷千島王、朝鮮へ使いを送る。

1499
浄願寺弘賢、1471年頃より蝦夷地で布教、浄願寺を建てる。

1512
アイヌ蜂起し、函館、志苔、与倉前の三館陥落、河野・小林両家没落。浄願寺、蜂起を避けて秋田に撤退。

1513
松前の大館陥落、但し蛎崎光広がアイヌに仕業に見せかけて攻めたとの説もある。

1514
花沢館(上ノ国)の蛎崎光広、松前に本拠を移転、徳山館を構築。

1515
道南の東部首長のショヤ(庶野)、コウシ(匐時)、道南で蜂起、徳山を攻める。
蛎崎光広、徳山館の和睦の席で両者を暗殺、現在、松前にある蝦夷塚はこの時の犠牲者の塚であると言われる。

1528
アイヌ蜂起、徳山館を襲撃、松前義広が撃退。

1529
道南の西部首長タナカサシ蜂起
瀬田内で工藤九衛門の軍を破り、勝山の和喜館を攻める、蛎崎義広、和睦を呼びかけ弓矢でタナカサシを暗殺。

1531
アイヌ蜂起、松前の大館を襲撃。

1536
タナカサシの女婿タリコナ蜂起、蛎崎義広、和睦と称し、酒宴の席で暗殺。
大谷派僧侶真徳・松前専念寺草創、以後専念寺は松前藩と何度も婚姻関係を結び、蝦夷地の仏教界で大きな力を持つ。

1550
松前の蛎崎李広、瀬田内の首長ハシタイン(道南西部の首長)、知内の首長チコモタイン(道南東部の首長)が会談、和人地を上ノ国から知内のラインより南として合意し和睦。
この和睦で確定された和人地は、コシャマイン戦争時の道南12館の占有地の約1/3に縮小。
この和睦により、アイヌ諸部族連合体は和人勢力を渡島半島の一角に追いやることに成功しており、コシャマインの蜂起以来の一世紀に渡るアイヌの戦いは、軍事的には成功したとも言える。
これより一世紀弱の間、平和な時代が訪れる。

1551
蛎崎李広、「夷狄の商舶往還の法度」を制定、アイヌに対する交易の優位を確立。

1565
ルイス・フロイスによりはじめてヨーロッパにアイヌの情報が伝わる、出羽国の秋田に、アイヌが多数交易にくる様子などを記録。

1591
東北の九戸政実の乱の際、篭城した兵士の中に夷人(アイヌ)が二人おり、酒を振舞ったところ、箸(パスイ?)のようなものを載せて酒を飲んだとの記録がある(氏郷記)。

1593
豊臣秀吉、蛎崎慶広(後に松前と改姓)に朱印状を与え、蝦夷島の支配権を公認。
これにより、秋田氏の代官から大名になる(松前藩成立)。慶広、この朱印状を道南地域東西のアイヌを集め、アイヌ語で読み聞かせる。

1599
蛎崎慶広、大阪城で徳川家康性に謁見、蝦夷地の地図を献上、性を松前に改める

1604
松前慶広が征夷大将軍・徳川家康から黒印状によりアイヌとの交易権独占を認められる
この黒印状により、和人の商船は全て松前藩を通してアイヌとの交易を行う事になり、アイヌの本州島の和人との直接交易は禁止された。

近江商人が松前に進出。

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 14:32:32 ID:3atUouFQ
大阪の陣の頃には津軽にもアイヌの部族が定住していたと聞いた。

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 21:45:12 ID:GxWz0wTh
シャクシャイン

9 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/07/25(火) 22:39:45 ID:neQC4mhJ
エカ
ウカシ
イキリ

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 22:56:40 ID:+q0fICBb
蜂起→暗殺がいつものパターン

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 03:09:57 ID:LQSLCePQ
>>10
本当にそのとおりだから困る

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 05:27:20 ID:Cha5Otbm
シャリシャインの代に欧州に攻め込んだんだよな。
征夷大将軍として討伐に赴いた多治比縣守と死闘を展開、
結局破れ、蝦夷に逃げ帰った。

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 14:58:32 ID:gIVFYen4
>>6
和睦と見せかけて暗殺のパターン多すぎワロタ
アイヌ人もお人好しなのかね。

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 21:29:30 ID:2FMgl9Ur
アイヌ交易ってどんぐらい儲かったんだろうか
何を扱ってたんだ
鮭とか?

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 22:00:50 ID:Cj/C6Dsw
羆もあんじゃね?W

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 20:00:16 ID:018tXazw
某ナコルルが好きだったから、狂ったようにアイヌの事勉強したなぁ。十年前。

好んで読んでた萱野繁さんの本は、内容が民俗や食事、民話がほとんどだったから
このスレには期待。

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 20:51:34 ID:3SRv1jat
>>16
萱野茂氏は今年亡くなられてしまいましたが、アイヌ文化の保護・伝承に非常に貢献のあった方ですね(国会議員にもなってます
特に明治以降の同化政策で散逸した伝承等を集めて纏めた功績は素晴らしいものがあります
調べてみたらSTVラジオのアイヌ語講座もこの人が起点になってるんですね

ちなみにカムイコタンは今でも実在する地名です

>>14
アイヌ交易はアイヌ側は鮭の干物や干し鮑などの海産物の干物、また毛皮等などを取引していたようです
儲けは都市で売りさばいた回船問屋はなかなかのものだったと考えられます
干し鮑なんかは中国にも輸出されてたようですし

アイヌの歴史は和人の資料を介してしか出てこないから、
アイヌの中で何があったかはほとんどわからないのがつらいですね

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 21:01:51 ID:018tXazw
>>17
最近聞かないと思ったら、亡くなってたのか(つД`)
御冥福をお祈りします。

アイヌって、確か文字を持ってないんだよね。


19 :17:2006/07/29(土) 21:47:04 ID:3SRv1jat
>>18
文字は無いです
そのため歴史も民話も書物にならず口頭伝承だったため、
明治以降の同化政策によって集落が壊滅し離散、これらの多くが失われてしまったそうです
これらが再び社会の表に出たのは萱野茂氏の偉業あってこそ

書物がないため和人が蝦夷地に本格的に進出する以前のアイヌについては全くというほどわかっていません
ただ集落跡の調査等から、比較的古くから中国との交易はあったようで、戦国時代にもおそらく続いていたのではないかと考えてよいようです

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 22:06:06 ID:018tXazw
アイヌ民族って、戦後マッカーサーに「自地区やるから独立しないか」と誘われて
「んなモンいらねーから日本かえせ」て返事したんだよね。
ゴタゴタはあったんだろうけど、同化政策は比較的うまくいってたのかな。

やっぱり文字文化がなかったのが悔やまれる。
まともに残ってる記述が反乱の事しか無いなんて、ちと寂しい。

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 22:21:32 ID:3SRv1jat
>>20
うまくいったというよりは、完全にアイヌ社会が破壊されたため、その後の世代では混血が進むなどして、
民族意識が非常に弱くなってしまったりしたのではと思われます

また、同化政策によってアイヌ民族の人口が激減したことや
当時はアイヌ民族は社会的には被差別対象であったことも多少は影響しているかもしれません

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 17:07:03 ID:qszVeDPP
>>20
その返答は当時の長老格数人だけで決められて、
後になって知里真志保とか若いアイヌから散々叩かれたって話だけどね。
それでも>>21が言うように、文化的、社会的にズタズタだった当時のアイヌが
国を持ったとしても護持できなかっただろうし、自治区を貰ったところで
「先住民族の権利」なんて概念が皆無の当時の和人からは、
自分達はこんなに大変なのに何であいつらだけ、とか思われただろうな。

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 17:46:55 ID:CWRr0q2a
>>20>>21
そうだったんか。
俺はてっきり美談のつもりでいたよ。

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 17:55:04 ID:CWRr0q2a
アンカーまちがい。
>>21>>22ね。

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:59:32 ID:bbHU8YN0
>>22
アイヌの『先住民族の権利』自体、
ニ風谷ダム訴訟で初めて出てきたに等しいぐらい新しいものですね

閑話休題
アイヌの集落は北海道の太平洋側の海岸付近と石狩川などの大きな河川沿いに広がっていたようです
集落の様子も地域差があり、道東の集落跡などに比べると
和人との境界線にあたる渡島半島ではやはり争いに備えた砦的な雰囲気があるそうです

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 21:06:54 ID:I7qnNSQU
アッー!イヌ

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/31(月) 00:19:50 ID:5d+Aywpw
だめだ、自分なりに調べてみたけど、こと歴史に関しては、このスレで書かれてる以上のものはみつかんないや。

詳しい人に質問。
変わり者のアイヌ人が、どこかの勢力に仕官してたとかはなかったの?

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/31(月) 01:29:48 ID:wGEncbLv
>>27
聞いたことはないです
ただ、九戸政実の乱では蛎崎氏がアイヌ部隊を率いていたことが記録に残っているようです

あともしかしたらですが、
交易の際には通訳を介していた(それくらいアイヌ語は日本語とは全く異なる)と思われますから
松前や函館などの北前船の寄港地で働くアイヌの人もいたのかもしれません
根拠はないですが

後、道外にもアイヌが居住していたのは地名の分布からほぼ間違いないようです
東北にもアイヌ語由来とみられる地名は多く残っています

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/31(月) 10:24:37 ID:5d+Aywpw
>>28
なるほど。
居たかもしれないけど、記録に残ってないのは出世した人はいないからって事なのかもね。


30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/02(水) 18:31:32 ID:Ku5hc0Pl
>>28>>29見て思ったが、東北や北海道に信長みたいな実力主義のベンチャー大名がいたら面白かったかもね。
逆に、徹底的に潰された可能性もあるけども。

しかし、もうネタ切れか。


31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/03(木) 00:32:24 ID:Jz6+EPL/
>>30
資料・記録がない(>>6が全て)
説話や伝承すらない
正直ネタ探してもないがなという感じ

戦国時代の括り外せば話せるネタはあるだろうけど…
それじゃ板違いなわけで

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/03(木) 00:35:56 ID:f7rpZ/dH
アイヌ総合スレ

アイヌ その5
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/min/1109180864/

33 :31:2006/08/03(木) 01:01:07 ID:Jz6+EPL/
>>32
何かグダグダなスレだね…
まったり語れそうにもない感じorz

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 12:00:48 ID:gDsUnuri
過去スレ
北海道の戦国時代ってどうだったの?
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1086177279/

蠣崎氏の軍勢に参加していた北海道のアイヌ兵は、蠣崎氏とともに
檜山安東氏の対南部戦や戸沢戦にも従軍し、どの毒矢によって
恐れられていた。
なお、九戸政実の軍勢に参加していたアイヌは下北アイヌかもしれない。

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 12:01:25 ID:kXCMQ6vp
ウソ:日帝は我々を強制連行した。
本当:大東亜戦争前は、出稼ぎで日本に渡って来た者。
   戦時中に徴用された者はいるが、日本全土が戦時体制であり、本土の日本人
   も徴用・徴兵されていた。ちなみに、朝鮮半島での徴用・徴兵は1944年
   からであり、徴兵された者は訓練が間に合わないまま終戦を迎えたため、
   実戦には参加していない。更に戦後まもなくGHQの命令により帰国事業が
   実施されており、徴用された者は用意された無賃の船によって帰国している。
   この時船に乗らずに帰らなかった者は、自らの意志で残った者達。
   戦後は朝鮮戦争時に難民として日本に来た者もいる。

ウソ:日帝は女性を強制連行して、慰安婦にした。
本当:当時日本軍と慰安所(売春宿)との繋がりがあったが、性感染症要望のための
   検査を行ったり、値段の交渉を行ったもの。
   なお、慰安所に売春婦を斡旋する業者も存在したが、その一部(主に朝鮮人)
   に女性を騙したり、無理矢理連れて来た者がいた。
   その者に対して厳しく取り締まるよう命令した軍の命令書や、裁判の記録も
   発見されている。

ウソ:日本はまだ謝罪も賠償もしていない。
本当:過去の総理・天皇が(しなくていい)謝罪をしている。更に日韓の国交回復
   時、日韓基本条約により(しなくてもいい)賠償もしている。
   また、属国が宗主国より独立する際、宗主国が属国に対し投資したインフラ
   代等を請求するのが国際慣例なのにも関わらず、日本はこれを放棄している。

ウソ:「アイゴー、それでも日本は悪いニダ。謝罪と賠償を」
本当:「いちいちコメントしない」

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 12:03:32 ID:kXCMQ6vp
ウソ:日帝は朝鮮を植民地にした。
本当:自力で近代化できなかった当時の大韓帝国が、日本に併合して近代化して
   貰う事を自ら望んだ。日本はその時に交わした日韓併合条約により、イン
   フラ整備・学校の設置等を行い、近代化に努めた。その為の資金は日本の
   税金により、行われた。

ウソ:収奪・搾取を朝鮮人に対して行った。
本当:朝鮮半島から日本本土に流れた物資は、貿易によるもの。

ウソ:日帝は日本語を強要し、我々から言葉を奪った。
本当:朝鮮の学校では併合晩年まで朝鮮語が必須科目だった。戦時中に必須科目
   ではなくなったが、選択科目に切り替わっただけで、禁止にはなっていない。
   なお、現地日本人が運営する学校では選択科目のまま残す傾向にあったが、
   朝鮮人が運営する学校では選択科目からも外し、日本語のみにする傾向が
   あった。
   また、約400年近く使われていなかったハングル文字を発掘し、教育する
   よう命じたのは、朝鮮総督府である。

ウソ:日帝は日本風の名前を強要し、我々から名前を奪った。
本当:該当すると思われる創氏改名のうち、創氏は戸籍制度の変更。朝鮮では氏族
   制度だったのを戸籍管理上、日本の戸籍制度だった家族制度に変更されたもの。
   なお、戸籍制度変更で氏が変わる者は、旧姓も併記されていた。
   更に、併合前の朝鮮では被支配層の中には名前も無い者さえおり、その際、
   新たに家族制度に従って朝鮮人が申請する氏が創られた。
   また、改名は満州国建国後、満州国にいた朝鮮族から「名前が朝鮮風だと
   中国人に差別される」との理由で、日本風の名前に変える事を希望。その声に
   日本風の名前に変えることを許可したもの。

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/07(月) 14:40:57 ID:2H+Eo+Nl
>>35>>36
すれ違い

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/07(月) 15:31:29 ID:FggHl6Cy
>>31

大永五年(1525)の蜂起
享禄元年(1528)の蜂起
享禄二年(1529)のタナサカシの戦い
享禄四年(1531)の蜂起
天文五年(1536)タリコナの戦い

あたりから語れば

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/07(月) 22:12:48 ID:YtGqrqlc
永享四年(1432)
奥ノ下国(しものくに;安東氏宗家のこと)与南部弓矢事ニ付テ、下国
弓矢ニ取負、エソカ島ヘ没落云々、仍和睦事連々申間、先度被仰遣候処、
南部不承引申也
(『満済准后日記』)

康正二年(1456)
春乙孩(オッカイ;アイヌ少年のこと)来たりて鍛冶に〔靡リ〕刀(マキリ;
アイヌの使用する刃物のこと)を打たしむるところ、乙孩と鍛冶、〔靡リ〕刀の
善悪、価を論じて、鍛冶、〔靡リ〕刀を取り乙孩を突き殺す。これによって
夷狄悉く蜂起して、康正二年夏より大永五年(1525)春に迪るまで、東西
数十日程の中に住する所の村々里々を破り、者某(シャモ;アイヌ語で
和人のこと)を殺す事、元は志濃里の鍛冶屋村より起こるなり。活き残る人
皆松前と天河に集住す。
(『新羅之記録』)

少なくともこの辺から語らんと

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/23(水) 19:00:14 ID:XYpc0Kht
石炭も鉄鉱石も砂鉄もあるんだから、
やる気になって誰かが3世代ぐらい頭下げて鍛冶学んだら
アイヌも刀やら針やら作れたのになあ。

アイヌとシャモの通婚はあんまりなかったのかな?

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 01:50:38 ID:dy4u1H0t


42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 03:47:02 ID:ds5b1Pfh
>>40
アイヌのチャシ跡から、鉄かどうかは覚えてないが太刀が見つかったりということもあったりするそうな
もちろんアイヌが作ったものかはわからないけど

武器になりそうなものや技術については、和人側が秘匿していた可能性があるかも
事実、江戸期にはアイヌに対して鉄砲を交易対象とすることは禁じられてたそうな
それでもアイヌは中国との交易で入手してたらしいが

43 :名無しさん:2006/09/09(土) 15:46:51 ID:blSu6Vp7
戦国時代のアイーンこと、志村けんは、エゾの草原にある一軒家で外人相手にダイジョーブだぁと言っていた事は、CMでも証明されている。

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 15:59:25 ID:pG12Uk4+
松前氏が実はアイヌだったって説もあるよね。あと、青森なんかには同化したアイヌがいっぱい住んでたとか。

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 18:37:03 ID:1n0o6FqB
>>44
蛎崎家は若狭武田家の流れを自称してますが、
激しく疑わしいのは事実ですね
若狭武田家の記録に蛎崎家の祖武田信広は存在しませんし、
南部家の記録では南部氏庶流の流れであると書かれているように、
そのルーツは謎という感じです

後、アイヌの居住圏や行動範囲は想像以上に広いとされ、
東北地方・北海道・樺太・千島にその分布は広がり、
交易圏も対本州のみならず、中国・朝鮮や沿海州一帯までをも含んでいたようです
それ故、東北地方にもアイヌ語由来の地名とされる地名が残っているそうです

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 04:03:41 ID:8jE3DX9j
>>44
>松前氏が実はアイヌだったって説もあるよね。あと、青森なんかには同化したアイヌがいっぱい住んでたとか。
日本人は元々全員がアイヌだろ。

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 11:32:26 ID:2TIXcf3W
大坂の陣に徴集されたとかいう話は

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/27(金) 21:23:02 ID:YdlG9k3F
俘囚と部落民の関係をきぼんぬ

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 02:13:03 ID:8NMEb7pa
>>48
俘囚は、奈良・平安時代だろう。
朝廷が蝦夷の捕虜を各地に強制移住させた。
部落民は、江戸時代以降じゃないのかな。
家畜の屠殺・解体業者が集まって住んでいた地域。
血の汚れの連想から、賎しい職業と蔑まれたことから差別が始まったのかな。

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 16:47:03 ID:pajD3B1Q
>>48
俘囚は蝦夷のうち、朝廷の支配を受け入れたもの。
俘囚全部が強制移住になったわけでもないらしい。
西国に移配されたのは賤民になったみたいだけど、出羽や陸奥に残った俘囚は
後の奥州安倍氏や清原氏、奥州藤原氏とかにつながってるとか何とか。
平安時代まで和人も東北にどんどん移住してたし、奥州藤原氏が滅亡した後は
完全に和人と同化したらしい。
どっちみち江戸時代に確立された身分制度に基づく賤民とは800年くらい違うしねぇ。
律令制の賤民制度は10世紀くらいに崩壊してて、中世以降の被差別民とは連続性薄いし。

それに非人とかは鎌倉時代に全国に作られた、非田院関係が多いらしいしね。
穢多(河原者)とかは、皮革製品が重要だった戦国時代を中心に、職能集団としての性格が
結構強かったりするし。まー穢れが多いってんで嫌われてはいたみたいだけどね。
合戦でわさわさ人殺しといて、今更牛や馬をさばいたからどーだという事もあるし、
そんなに目立って差別されてたわけじゃないらしい。
もともと中世は世襲制でガチガチの身分制度があったわけじゃないしねぇ。
大体中世までには混血が進んじゃって誰が俘囚とか言えないだろうし、関係ないだろう。

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/21(火) 21:47:10 ID:/HQYVZ4y
保守

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/21(火) 22:16:20 ID:gRyPQRAK
>>45
他にカムチャッカ南部や沿海州にもアイヌがいたらしいね。

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 10:04:53 ID:7ymtN8YW
丸木舟でよくやったもんだ

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 09:09:09 ID:AKMWmCZU
>>53
アイヌには「イタオマチプ」と呼ぶ板綴船がある。丸木舟の両側に板を
皮ひもでくくりつけたもので、丸木舟より荷物を沢山積めるし、安定性も
増す。アムール川下流域のウリチ人なども同じ技術で製作された船を
持っているので、そっちの方から伝わった技術と思われる。
ttp://www.welcome.city.sapporo.jp/pirka/itaomacip/index.html

55 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/01(月) 00:56:44 ID:43OZpJdt
あげ

56 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/01(月) 01:51:43 ID:v1HlaR7b
新年の行事とかあったのかね?

57 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/01(月) 17:27:09 ID:4BoTKAO7
>>56
今のアイヌはアシリパノミ(アシリパエクカムイノミともいう)を行う。
祭壇にイナウ(木幣)を立て、料理と酒を供える。アペフチカムイ
(火の神)などの神々に「今年もつつがなく過ごせますように」と
祈り、イクパスイ(酒捧箆)で酒をイナウに振りかけて神に捧げる。
その後はたいてい宴会になる。
なお、正月にこのようなカムイノミ(祈願儀礼)を行う習慣が
いつ頃から出来上がったのかはよくわからない。戦国時代まで
遡るものではないかもしれない。

58 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/01(月) 17:41:08 ID:4BoTKAO7
>>40-43
アイヌのルーツのひとつである擦文文化人は鍛冶の技術を持っていて、
自分で金属加工を行っていたが、アイヌ文化の成立(13世紀)以後、
鍛冶の技術や土器製作技術を捨て去ってしまう。
鎌倉幕府の成立前後から船による日本海交易が盛んになり、品質の
よい金属製品や漆器を和人から大量に購入できるようになったので、
自分で作る必要がなくなったからと思われる。

和人との交易の規模が大きくなった結果、擦文文化時代までは結構
盛んだった雑穀農業もあまりやらなくなり、漁労と狩猟に重点を置いた
生活にシフトした。これがアイヌ文化の基盤となった。

59 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/01(月) 19:11:31 ID:v1HlaR7b
>>57
ありがとう。
なんか観光客相手の商売用イベントって感じだな。

60 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/02(火) 01:49:04 ID:Vtp1Mnyx
>>59
どのあたりが観光用に見えるのかわからないが、カムイノミは観光用に
むやみに見せる儀式ではないよ。和人が神棚にお神酒を上げて
かしわ手を打ったり、神社にお参りしたりするような、ごく普通の行為。

61 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/02(火) 02:10:47 ID:Vtp1Mnyx
(蝦夷の)国は、甚だ大にして都より300レグワ(1レグワ約4.9km)あり、
彼等の中にゲワ(出羽)の国の大いなる町アキタと称する日本の地に
来たり、交易をなす者多し
(ルイス・フロイス『イエズス会日本通信』1565年年報より)

彼等(蝦夷人)は、銀や砂金をたくさん持っていて、それらを払って
日本人から米やその他のものを買う、米と木綿布を最も欲しがった。
鉄と鉛も、日本から来る
(ジョン・セーリス『日本渡航記』より 1613年の叙述)

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