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長篠・設楽原合戦の真実

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 18:10:27 ID:C+plg2A7
近年、多くの新説が提唱されている長篠合戦のスレッドです。

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 18:17:24 ID:XrDqkzEf
この戦での武田軍の兵力は1万5千と言われているが
武田軍の兵力が、三方ヶ原の時より減っているのは何故だろう。
勢力は信玄存命時より伸びているはずなのに。

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 18:24:04 ID:yCFjqnSy
つ別の方向の押さえ

だから1千しか生還できなくてもすぐには滅ぼされなかった

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 18:26:50 ID:XrDqkzEf
押さえが必要なのは、三方ヶ原の時も同じでは?

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 18:49:37 ID:+axJQ5jM
十月〜の西上戦と四・五月の長篠合戦では
状況が違ってくるだろうけど。
信越国境って冬は雪で封鎖される地域だっけ?

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 04:36:03 ID:zb2GuJkF
鈴木眞哉の説は信用できるんですか

7 :某研究者:2006/07/18(火) 05:10:50 ID:358Q52WJ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

>もともと数で劣る武田軍の犠牲者の多くは、鉄砲によって
>ではなく、敗走時に討ち取られたものである。竹束柵を防
>御に幾度となく突撃を繰り返していく内に疲労困ぱいし、
>指揮命令系統が崩壊、まさにこの時織田・徳川連合軍の反
>撃を受けて、たまらず敗走したと思われる。

雨が降った後の泥の上を移動して疲労したのが
軍が崩壊した最大の原因と言う
事だっただろうが
雨が降って居なかったら
勝敗はどう成って居ただろうか

無論雨が降らなければ
織田軍も勝算は無いと見て
戦わなかった可能性も
有るだろうが
何時迄も戦いを避ければ
領土が制圧される危険も
有る訳だろうか

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 05:18:10 ID:5pS1qhFq
長篠の戦犯は三枝

9 :某研究者:2006/07/18(火) 05:21:29 ID:358Q52WJ
>織田家の勢力の伸張は急速であり、日に々々彼我の国力差は開いていくばかりであった。可能な限り早い段階で、武田家は織田家に対し戦術的勝利を戦略的勝利に転換出来るほどの勝利を得る必要があったのである。

とは言え
泥の中を無理に突入する必要は
有ったのかだろうし
泥等が無い状態で決戦を挑むと言う
方向も有ったのかも知れぬし
城は少数兵力で包囲して迂回すると言う
方向は無かったのかだが

10 :某研究者:2006/07/18(火) 05:28:15 ID:358Q52WJ
>また、織田の一軍団と戦い勝利しても、それは戦略的勝利にはなりえない。やはり不利は承知で今回信長の首級を上げるしかないという結論に達した結果、開戦に踏み切ったと考えられる。

まあ泥の無い状態で信長と
直ぐに再戦出来る目処が
無かったと
考えたのかどうかだが

11 :某研究者:2006/07/18(火) 05:31:16 ID:358Q52WJ
>中央部隊の親類衆の早期退却による中央部の戦線の崩壊により、両翼の部隊での損害が増大した。両翼では多くの部将が討ち死にしたが、中央の部隊の部将は親類衆以外でも生還している者が多い。

両翼は敵陣を迂回したから
疲労が増大して壊滅したと言う
可能性も有るのかも知れぬが

12 :某研究者:2006/07/18(火) 05:39:18 ID:358Q52WJ
>これより六年後の天正9年(1581)に定められた明智光秀家中の軍法によれば、一千石取りで軍役32人、そのうち鉄砲五挺を用意するべき旨定めている。
>この軍役率を参考にすると、長篠合戦に参戦した織田軍の兵力を通説に従い三万五千とすれば、鉄砲は約五千挺ほど用意出来た計算になる。

鉄砲は5000だったと言う
意見も有る様だが
此れだけの数の銃を用意出来たのか
どうかだが

13 :某研究者:2006/07/18(火) 05:45:26 ID:358Q52WJ
敵の柵内部への突入後は
土塁の上に槍兵が立って
敵兵の陣地内への進入を防ぎ
更に土塁内部の銃眼から射撃をしたと言う
可能性も有る訳だろうか

14 :某研究者:2006/07/18(火) 05:49:38 ID:358Q52WJ
倍以上の兵力が有り且つ陣地が有り
且つ敵が泥の中を行軍して来た割には
信長軍は可也やられている訳だろうし
泥が無ければ下手をすると
負けていた可能性は有る訳だろうか
(陣地も無ければ恐らく
 完敗だろうか)

15 :某研究者:2006/07/18(火) 05:55:59 ID:358Q52WJ
http://www.sanada.or.jp/contents/column/hinawa/teppo_tai.html
戦国時代の鉄砲の総数は15万丁と有るから
5000程度は十分用意出来た可能性は
有る訳だろうか

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 06:09:25 ID:FcgzsmUQ
>9-10
石高(太閤検地による算出)だけでも、織田家は約400万石、武田家は100万石弱、徳川家が55万石
織田・徳川と武田の比率は9:1(但し、織田家は武田との方面に投入できる戦力を考えると、兵力差は縮まりますが)
信玄上洛時とは違い、織田家が投入できる戦力は確実に上がっています。
>11
両翼部隊は中央部隊の早期退却による士気の壊滅から退却〜追撃による損害でしょう。
>13-14
倍以上の兵力がある場合でも、無理をせずに相手が攻め疲れるのを狙うために持久戦を選んだとも考えられます。
信長は慎重な性格と思いますので、あれほどの大戦力を持ってきたのは位攻めの効果を狙っていたかも?
防衛線を築かせたのは武田軍との決戦の為ではなく、武田軍が攻撃をしてくる可能性を考えていたの考えも面白いかもしれませんが。
極論を言えば、長篠城を守り切れば良いだけの話です。


17 :某研究者:2006/07/18(火) 06:22:03 ID:358Q52WJ
>両翼部隊は中央部隊の早期退却による士気の壊滅から退却〜追撃による損害でしょう。

信長がこれを狙って中央に銃や精鋭を集中配備していた可能性も
有るのかどうかだが


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%AA
>16世紀後半には2:1(=槍:銃)となり、16世紀末には1.5:1(=槍:銃)、17世紀初頭には1:1(=槍:銃)となっていた。

同時期のテルシオの銃兵の比率の方が
信長軍より遥かに多い訳だろうが
マスケット銃は精度が低い訳だろうし
火縄銃と異なり至近距離からの銃撃しか
意味は無かった訳だろうか

マスケット銃で至近距離からの銃撃をやったのは
カール12世辺りだけだったかも知れぬが
オランダ式大隊や3兵戦術で使用された様な
大量の軽量砲での攻撃と言うのは
強力かも知れぬが
テルシオの様な密集隊形相手以外は
役に立たぬかも知れぬが

18 :某研究者:2006/07/18(火) 06:27:15 ID:358Q52WJ
散開すれば騎兵にやられると言う意見も
有るだろうが
日本の騎兵や
16世紀後半のピストル騎兵は歩兵に突撃は
しなかった訳だろうが
グスタフ・アドルフのサーベル騎兵は
突撃をした訳だろうか

19 :某研究者:2006/07/18(火) 06:36:09 ID:358Q52WJ
>テルシオを構成する兵科は以下の四種類である。

>パイク兵(Pikeman) - パイク(長槍)を持ち、鎧は一部か、あるいはまったく装備しない槍兵。
>コルスレット(Corselet) - パイクを持ち、鎧兜で完全武装した槍兵。
>アルケブス銃兵(Arquebusier) - アルケブス(火縄銃)を持つ銃兵。
>マスケット銃兵(Musketeer) - マスケット銃を持つ銃兵。なお、この当時のマスケットは、アルケブスより大型の銃の呼称である。マスケットが縮小され、先込め銃全般を指す呼称になったのは17世紀のことである。

コルスレットと言うのは
火縄銃を完全に防御出来る鎧を
着て居る兵なのかだが
マスケット銃(重小銃)では
やられていた訳だろうか


>テルシオ1部隊は、A中隊10個、B中隊2個の12個中隊で構成された(兵300名の場合は、A中隊8個、B中隊2個の10個中隊)。総数は3,000名となり、その内訳は、士官と事務員132名、パイク兵1080名、コルスレット1110名、アルケブス銃兵448名、マスケット銃兵230名である。
>全体の指揮は大佐(コロネル)が司り、彼を補佐する将校団(テルシオ全体の本部要員)は30名前後だった。

鎧を着たパイク兵(コルスレット)も可也居るが
マスケット銃兵も可也居る訳だろうが
至近距離からの銃撃以外は
当たらなかったと言う事かも知れぬが
後で銃兵の比率が多く成ったと言う事は
鎧を着た兵も減ったと言う事かも知れぬし
至近距離しか当たらないマスケット銃は
脅威では無いなら
日本の軍と白兵戦をしたら
負けたと言う事は無いのかだろうし
白兵戦前にも火縄銃の精密射撃で
可也ダメージを受けた可能性は有る訳だろうし
騎兵はピストル騎兵なので歩兵に突撃は
しなかったと言う可能性も有るだろうが

オランダ式大隊の軽量砲も
散開隊形の日本と戦う場合は
余り役には立たなかったと言う
可能性も有るだろうし
逆に日本側の大量の火縄銃の精密狙撃で
可也の被害を出し
騎兵はピストル騎兵なので歩兵に突撃は
しなかったと言う事は無いのかだが 

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 06:37:32 ID:FcgzsmUQ
突入防止のための柵、遮蔽物としての土塁により柵内の味方の士気を守りつつ、
ある程度統制された射撃(with轟音)に及び柵外の妨害により安全圏から相手の戦力・士気を削る。
槍衾を形成できる密集隊形に対して、統制された射撃は効果があったでしょう。
若しくは矢合わせ・投石の遠距離の交戦の段階で中央部隊の士気が減っていた可能性もあります。
(何しろ、武田方は遮蔽物が皆無な状態に近いですし、野戦用とは言え完成された陣地を攻める方ですから)

それと、wikiに記載されている武田家の損害に対する疑問がある程度の真実かどうかが鍵でしょうね。
(当然、織田・徳川連合軍の損害も遥かに低下する訳ですから)

21 :某研究者:2006/07/18(火) 06:38:29 ID:358Q52WJ
まあ只スウェーデン軍相手には騎兵突撃を受け
壊滅した可能性も高いのかも知れぬし
仏軍もサーベルチャージと言うのが
有っただろうか

22 :某研究者:2006/07/18(火) 06:40:35 ID:358Q52WJ
まあしかしスウェーデンや仏の騎兵に対しては
チェリニョーラのスペイン軍や
信長軍の様に障害物を
築けば
火縄銃の精密射撃で殲滅出来た可能性も
有るのかも知れぬが
陣地への重砲の攻撃でやられた可能性は
有るのかどうかだが

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 06:41:06 ID:uQoYMef+
むしろポイントは決戦前の武田軍の前進
鳶ノ巣山を固められてたらどうにもならなかった、みたいなことを太田牛一も書き残している
そして徳川軍酒井勢と、織田軍馬廻選抜隊の奇襲によりこの鳶ノ巣山が落ちたことで武田軍は包囲される破目になった

24 :某研究者:2006/07/18(火) 06:56:52 ID:358Q52WJ
http://sidokan.hp.infoseek.co.jp/page259.html
>それとやはり武田軍は戦うべきではなかった。鳶ノ須山を攻略されて背後を取られたとしても、何とか撤退
>を試み、織田・徳川軍を山岳地帯へ引きずり込み、ゲリラ戦で殲滅することも不可能ではなかったと思う。

と有るが
此れは可能だったのかどうかだが

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 07:13:04 ID:FcgzsmUQ
信長公記より。
五月廿日戌の刻、のりもと川を打ち越し、南の深山を廻り、長篠の上、鳶の巣山へ、
五月廿一日、辰の刻、取り上り、旗首を推し立て、凱声を上げ、数百挺の鉄炮を僮と、はなち懸け、
責め衆を追ひ払ひ、長篠の城へ入り、城中の者と一手になり、敵陣の小屋々々を焼き上ぐ。
籠城の者、忽ち運を開き、七首の攻め衆、案の外の事にて候間、癈忘致し、鳳来寺さして敗北なり。

鷲の巣山へは20日22時移動開始、攻撃は21日8時。設楽が原の戦闘は21日朝

これを考えると、最初は小競り合いだったのが鷲の巣山へ別動隊が攻め入るのを見て、
ある程度手薄になったと勝頼が錯覚して本格的に戦闘を命じたのかも。

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 07:17:50 ID:FcgzsmUQ
ここから想像できる時系列を纏めると、
20日22時まで
鷲の巣山に移動・到着〜攻撃開始
21日朝
設楽が原で小競り合い
21日8時
鷲の巣山周辺の残敵壊滅・長篠城包囲網崩れる
本格的交戦の開始

>25に解釈の間違えがありましたことお詫びいたします。


27 :某研究者:2006/07/18(火) 07:22:11 ID:358Q52WJ
武田軍の敗因は疲労が原因では無く
信長軍が銃を中央に集中した為に
中央が早期に崩壊した事が
原因かも知れぬが
武田軍が早期に退却したと言うなら
信長軍の損害が妙に多いが
信長軍が無理な追撃をした所為と言う事は
無いのかどうかだが

28 :某研究者:2006/07/18(火) 07:41:01 ID:358Q52WJ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E9%8A%83
失礼17世紀後半迄は
西欧でも火縄銃が主流と言う事だっただろうが
日本の様に狙撃はして居たのかだろうし
オランダ式大隊等を見ると一斉射撃をして居た様に見えるが
テルシオではどうだったのだろうか

29 :某研究者:2006/07/18(火) 08:25:24 ID:mXnYUZaD
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1852594
>ホイールロック銃を主力火器として採用したのは、グスタフアドルフのスエーデン軍が有名です。
>30年戦争で、グスタフアドルフ軍が活躍したのは、ホイールロック式銃のおかげとも言われています。
>ホイールロック式銃の欠点として、高価で故障が多かったため、採用しなかった国が多い事は事実ですが。

発射速度は火縄銃より早いのかも知れぬが
狙撃はして居なかったと言う
事だろうか

30 :某研究者:2006/07/18(火) 08:34:58 ID:mXnYUZaD
まあ只西欧の軍隊も
陣地や城内からは一斉射撃では無く
一人毎狙撃していたかも知れぬし
此れを正面から攻略すれば
可也ダメージを受けたと言う可能性は
有る訳だろうか

31 :某研究者:2006/07/18(火) 08:35:54 ID:mXnYUZaD
ホイールロック銃と言うのは
ハンマーの反動と言うのは
有るのかだろうし
無いとすれば精度は
フリントロックよりは
良かった訳だろうか

32 :某研究者:2006/07/18(火) 10:11:16 ID:mXnYUZaD
陸軍は兎も角海軍力の差は
明らかかも知れぬし
制海権が無ければレパント後のトルコの様な状況に
陥る訳だろうか


33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 15:58:15 ID:qbmmhAek
『信長公記』は、連合軍の鉄砲使用を「御人数一首も御出なく鉄砲計を相加・・・。」と鉄砲中心の戦いであったことを記している。
「三段撃ち」の言葉は、この想定の一つとして使用されてきたと思われるが、二つの解釈がある。

・「三千挺の三列交代射撃」はありえない。
目の前に敵がいる、いないにかかわらず「千挺ずつ絶え間なしに発砲を続ける事になる。

・鉄砲を三段に分けて交互に撃つ形で、たとえば「三人一組で順次に撃てる体制をとることだ」

小瀬甫庵の『信長記』はこの「千挺ずつ」を下知として記すが、鉄砲使用場面とは区別している。
二つの解釈は実際の撃ち方では大きな隔たりがない。
ただ「鉄砲計を相加」がどんな撃ち方で有効なのかについては議論がかみ合ってない。

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 15:59:16 ID:qbmmhAek
某研は相変わらず変わらんのお。



35 :某研究者:2006/07/18(火) 16:20:30 ID:mXnYUZaD
銃眼の数が銃兵の数より少ないので
前後に入れ替わって放ったと言うのが
妥当なのかも知れぬし
1000−5000もの銃眼が
土塁に有ったのかどうかだが

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 19:06:44 ID:eEoVUw2W
過去スレ

長篠合戦 武田の敗因
ttp://makimo.to/2ch/hobby_warhis/1046/1046579990.html
長篠合戦 武田の敗因 U
ttp://makimo.to/2ch/hobby_warhis/1047/1047832129.html
「長篠・設楽ヶ原の戦い」ー武田軍の敗因は?その3
ttp://makimo.to/2ch/hobby_warhis/1070/1070044365.html

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 19:07:16 ID:eEoVUw2W
長篠の戦いの三段打ちは大うそか。
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi/army/1013088044/

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 22:20:39 ID:08lN5u2Y
決戦時雨が降っていたら、どうしたんだろう。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 22:32:35 ID:BlNgUoa2
高坂昌信が1万の軍勢とともに領内に残ってたんだっけ?
弱体化していく武田を見るのは耐え難い辛さだったろうな

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 23:51:33 ID:jAK9Gs7R
相変わらず某研の文章は読みにくい。

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/19(水) 10:34:34 ID:QQtFGndq
 織田信長・勝利の方程式
 〜真説・長篠合戦〜
ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~b_stone/nobunaga/rekishi/nagasino_1/nagashino1_1.htm

42 :某研究者:2006/07/20(木) 15:14:02 ID:vMkVs8lo
銃を中央に集中させて
中央を早期に崩壊させて
勝利したと言うなら
矢張り鉄砲の集中運用で
勝利したと言う
事かも知れぬが
アジャンクール同様に泥が無かったらどう成って
居ただろうか

43 :某研究者:2006/07/21(金) 11:33:29 ID:h2bDD/ps
内戦作戦で敵本隊に戦力を集中させて
全軍を撃破と言うのは
良く有る事なのかだが
本隊は襲撃を受けぬ様な後方に置いて
外線作戦をやられれば
兵力が劣勢なら大概は負けると言う
事かも知れぬが

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/21(金) 19:52:55 ID:E9x6GI8H
先生、今度五七五七七のリズムで句読点入れてくだされ。
ずっと読みやすくなるし、文章の格も上がりまするよ。

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/21(金) 20:23:26 ID:+Up0F6nj
某研究者、頭平気か?「だろうが」という逆説の使い方間違ってるよ?
「〜し」「だろうか」「だが」とかも、その後に続く言葉に繋がってなかったり、それで言い切りの形になってたり。

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/21(金) 20:56:58 ID:St/YxcuD
某って日本人か?

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/21(金) 21:00:40 ID:NuJsHYTH
>>45-46
そういう人ですから。
忠告するなんて無粋ですよ。

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/21(金) 21:09:02 ID:St/YxcuD
やはりそうなのだろうか
無駄なのかもしれないのは
自分でも分かってるだろうか
しかし忠告したくなるのも
仕方ないのではなろうか



自分でも書いてて頭痛くなるのではないだろうか

49 :某研究者:2006/07/21(金) 23:14:52 ID:+Up0F6nj
しかしそれも取るに足らぬ事だろうが
そもそも歴史に深くない諸君らには
そんなことしか言う事はないのだろうか
私は私なりに調査したことを書いたまでだが



ともあれ長篠戦で長期戦になり不利になるのは
連合軍の方なわけであるし
合戦が武田軍占領地域の中で行われていることから
明らかであるが勝頼は本当に焦燥していたのだろうかだが

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/22(土) 00:09:30 ID:VG5ZfgSM
明らかに不利なのは武田側だと思いますが?
連合軍は長篠城の包囲

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/22(土) 00:16:22 ID:VG5ZfgSM
途中で送信orz

明らかに不利なのは武田側だと思いますが?
連合軍は長篠城の包囲を(設楽が原の合戦前日とは言え)解く事に成功しています。
補給に関しても、連合軍側は距離的に優位に立っていると思いますよ。
逆を言えば、鷲の巣の砦を落とした時点で連合軍側が武田軍を包囲下に置きつつあったとも言えます。

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/22(土) 00:21:19 ID:m7i2LcI1
>>49
偽者さんIDがw

53 :某研究者:2006/07/22(土) 00:50:35 ID:scEkRxkL
http://www.k2.dion.ne.jp/~tactic/kanne.html
こういう戦いが出来れば
長篠の武田軍も勝てたかも知れぬが
織田軍は中央の追撃の為に陣地から出て来たのか
どうかだが
中央が後退しても此れは作戦であると思えば
両翼は崩壊しなかった可能性も
有る訳だろうか

54 :公孫参:2006/07/25(火) 16:40:41 ID:NZLyEYWC
鷲の巣落とされてんのによく戦う気になったよなあ…。
退却できない状況だったとか?

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 17:08:54 ID:Iln7E32Q
鳶の巣山砦と同時進行だろ?
落とされてから戦ったわけじゃない。

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 17:58:51 ID:XmsMv43/
「信長公記」には何種類かの違った写本が今に伝わっています。それらの中でも比較的本来のものに近いとされるものが2つあります。
1つは建勲神社本、もう1つが池田家文庫本です。前者では問題の部分は「鉄砲千挺ばかり」とあるのに対し、後者では「千挺」の右上脇に小さい字で「三」が付け加えられているのです。このことから、次のようなことが推測できます。
つまり本来太田牛一は、千挺と記したのだが、後世、流布した説(三千挺説)をみた人物がこれに加筆したのではないか、と。上で見たように鉄砲は各地からの寄せ集めであり、その全てを牛一が把握していたとは到底考えられません。
ですからこの千という数字も概数であることは間違いなく、その証拠に「ばかり」と表現しているわけです。

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 18:25:13 ID:gjLeS4RC
原本あるじゃん

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 19:25:12 ID:t0gQziV0
某研だw

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 05:13:01 ID:+Il5Xqfb
どう考えても包囲殲滅された戦死率でしょ、武田軍。
しかし、主力を犠牲にして圧倒的な敵主力を押さえて、敵の弱い所を穴山などの部隊が破って勝頼は逃げられたと考えられる。
山県などが、織田本隊に攻撃仕掛けて無ければ、勝頼も討ち取られていた可能性が高い。
武田からすれば、殲滅からの出来うる限りの見事な撤退だったと考えるよ、兵力差考えるとね。

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 05:43:27 ID:MkdwNw/f
包囲殲滅した割に連合軍の死傷者が多いのはなんで?

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 07:07:36 ID:kzdTMvJB
織田徳川方にも多大な被害が出た、というのは史料価値が低いとされる長篠日記のほうでしょ
撤退がまず親族衆主体で行われたから、前線部隊が見捨てられたと動揺して崩れたせいで追撃の被害がでかくなったともいえるな

62 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/03(木) 09:14:03 ID:oeapCDYE
史料的価値が低いとはどういった基準で判断されるのでしょうか?
同様に太田牛一の信長公記が第一級史料とされている理由はなんなのでしょうか?
どなたか教えていただけないでしょうか?

64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 22:32:38 ID:7UrJLhGB
戦国時代当時に書かれたものだから

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 01:46:16 ID:ZWqnwBDz
>>63
wikiですが、このページの一次史料・二次史料とその下のその他あたりをお読みください。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2%E6%96%99#.E4.B8.80.E6.AC.A1.E5.8F.B2.E6.96.99.E3.83.BB.E4.BA.8C.E6.AC.A1.E5.8F.B2.E6.96.99





66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/24(木) 07:14:20 ID:zzfIDiEr
さんくす。

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 11:44:33 ID:GCpKo5RK
信長が天才的だったのは、鉄砲を使ったことよりも
戦闘の性質を[会戦](敵味方同等)から[攻城戦](味方優位で守りきったら勝ち)
に変えたことでしょうね。

武田方からみると、
・本隊の強固な防衛陣地
・長篠城
・鳶巣山砦(夜間強行軍5000で急襲)
によって盆地状のところに包囲されたことにより、
織田本隊を殲滅しなければならなくなった(支隊を攻撃しようと
すると本隊に後ろを見せることになる)。

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 12:19:08 ID:pfIZZgv7
単に無理をする必要のない織田方と多少の無理はしてでも
勢力拡大しないとジリ貧になる武田方の差でしょ?
戦闘の性質を変えたとまで言うからには長篠以外の例も挙げてくれw


69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 14:05:23 ID:Kh5Ta3Z9
鈴木眞哉著『鉄砲隊と騎馬軍団-真説・長篠合戦-』(洋泉社、2003年)

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 14:43:45 ID:FISpITGk
武田軍の戦略は・・・・

1、長篠城を餌に誘き出す
織田・徳川軍布陣=作戦成功

2、後方に残した部隊で長篠城を落とす
目的1:前年の明智城攻略戦の時、城が落ちたら織田軍は早々に撤退したから、今回もそれを狙った。

目的2:撤退する織田・徳川を前面に押し出した主力部隊で追撃、撃破する。

しかし、織田軍の奇襲部隊により長篠包囲部隊が壊滅=作戦失敗

3、退路の確保
包囲部隊の壊滅により逆に包囲され、退路すら失ってしまった。
そのまま敗走すれば追撃を受ける。なので、無謀な突撃を敢行するしかなくなった。

武田勝頼退却=一応作戦成功






71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 18:52:57 ID:PNHgr1Za
武田軍12000人戦死って通説はすごいな・・・
そんなに死んで残り7年ももった勝頼は無双の名将ですね。

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 21:44:30 ID:FISpITGk
武田は100万石級の大大名
未だ戦力はあった

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 21:45:05 ID:FISpITGk
っていってもそんなに戦死したらしばらく動けないな

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 22:41:19 ID:p8L1dwqQ
1万2千も死んではないだろうが、損害が極めて大きかったのは事実。
信長公記でも甲陽軍鑑でも細川藤孝宛書状でも武田がわざわざ設楽が原に出て来たのが敗因と共通しているのがポイント。
戦後の信長の書状での喜び振りからして会心の勝利だったんだろうね。

75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 09:10:24 ID:UXkhmvgH

天正三年(1575) 長篠の戦い ダイジェスト

5月12日 甲斐の武田勝頼率いる武田軍が出撃し、すでに
武田軍先発隊が尾張熱田付近まで進撃したことを知る。
──『多聞院日記』

5月13日 織田信長・信忠、三河長篠城の後詰として出陣。
この日は尾張熱田に布陣し、熱田社荒廃に対して岡部又
右衛門に造営の件を命令。──『信長公記』

5月14日 織田信長・信忠、三河岡崎城に到着。徳川軍
と合流する。──『信長公記』

5月16日 織田信長・信忠、三河牛窪城に入り、城の警固
役として丸毛兵庫頭・福田三河守を配備。
──『信長公記』

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 09:11:22 ID:UXkhmvgH

5月17日 織田信長・信忠、三河野田原に野陣を設営。
──『信長公記』

5月18日 織田軍「志多羅」郷極楽寺山に布陣し、武田
軍に姿が見えないように、各部隊を配備する。
──『信長公記』

5月18日 三河長篠より三里余りの地点に於いて織田軍と
武田軍とが遭遇。織田軍「鉄炮」で武田軍を撃退する。
──『細川家文書』

5月20日 信長、この日の戌刻に軍勢を「のりもと川」を
渡河し武田勝頼の布陣する鳶巣山へ向かわせる。
──『信長公記』

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 09:13:29 ID:UXkhmvgH

5月21日 織田信長、高松山の徳川家康陣所を訪れ、
武田軍の動向を把握。1000挺ばかりの鉄炮部隊を
佐々成政・前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政
らに引率させ、武田軍への攻撃命令を下す。
──『信長公記』

5月21日 織田・徳川軍へ武田軍の山県昌景・武田信繁・
小幡一党・武田信豊・馬場信春ら武田の「赤武者」
「黒武者」が部隊毎に、攻撃を仕掛けるも、織田・徳川
軍の鉄炮部隊と足軽部隊によって武田軍、大損害を被る。
──『信長公記』

5月21日 武田勝頼ら武田軍は鳳来寺山へ向けて
全軍敗走。──『信長公記』

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 09:17:47 ID:UXkhmvgH

5月24日 吉田兼見、近江坂本の明智光秀を訪問し、
三河長篠における織田軍の大勝利を祝す。光秀宛
の信長書状を吉田兼見へ披見。──『兼見卿記』

5月24日 多聞院英俊、去5月21日に三河国に於いて
「一戦」があり、武田の甲斐衆が悉く討ち果たされ
たことを知る。──『多聞院日記』

5月25日 織田信長・信忠、美濃国岐阜城に凱旋。
──『信長公記』

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 09:35:34 ID:HMVUTs8z
>>70
>1、長篠城を餌に誘き出す
>織田・徳川軍布陣=作戦成功

それは2chしか聞いた事のない説。

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 08:01:46 ID:n0Y3UK/D
>>70
自分は割と妥当だと思うが。武田軍首脳が正面から戦って勝てると考えていたよりは。

あとは信長が部隊を武田に見えないように配備したせいで
連合軍の兵力を見誤ったとか。
それに加え一部地域からは鉄砲衆だけ集めてるから火力も通常の軍より高いだろうし。

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 13:44:40 ID:RwbnmGNB
戦死者が1割を超えると大敗とされるので、
織田勢が6000も死んでいるのは非常に問題がある。

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 14:18:13 ID:4WCPEHoo
18日から19日にかけての事って殆ど挙がらないよね

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 21:54:18 ID:Vxd2u/ib
>>81
しかも名のある戦死者がいない

>>82
信長公記に記録がないからじゃ

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 23:33:00 ID:L15f1A31
>>81
おいおい「戦死者六千」?
そんな史料はないなあ。
「死傷者六千」という史料ならあるけどね。

あと織田・徳川の損害が多いと記述されてるのは信用度が低い記述で
実際は戦死者で言うと
武田が二千程度、織田・徳川は軽微と考えられます。

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 23:36:41 ID:L15f1A31
武田の死者「一万二千」はさらに滅茶苦茶。
そんな事はありえないだろう。
「死傷者」と考えても一万二千はありえない。

妙法寺記では「二千討ち死に」と記述されてるので
実際は死者二千で負傷者三倍の法則から言ってその三倍くらいの負傷者いただろうけど、
それでも一万五千の軍の半分程度が死傷したことになり、ちとありえない。

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 23:42:54 ID:L15f1A31
あげ

87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 03:27:00 ID:pdWyaLQ/
>妙法寺記
ええっ

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 15:05:43 ID:m7QP+1Nt

○山県昌景
○馬場信春
○土屋昌次
○高坂昌澄
○真田信綱
○小幡信貞

甘利藤蔵・根津甚平・名和無理介・横田備中・杉原日向
和気善兵衛・真田昌輝・高森恵光寺・川窪備後・下曽根源六
浪合胤成・油川宮内・仁科・岡辺・竹雲・奥津

長篠で討ち死にした武田家の重臣は相当大物ですよね。
それとも小物ですか。


89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 15:27:31 ID:67uTS19G
内藤昌豊も長篠で死んだらしいよ。

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 19:15:03 ID:ffQtKXXn
正しくは内藤昌秀な

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 19:17:23 ID:ffQtKXXn
>>40
句読点を使って欲しいよな

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 20:00:40 ID:67uTS19G
どう見ても武田の損害一万二千に対して織田・徳川の損害が六千なんて証拠が出てこないんだよね。
特に織田・徳川がそのような大損害を出した形跡が全くない。名のある人物はまるで死んでないしね。

武田の一万二千も多すぎでちょっとありえない。
一万五千の軍勢で一万二千も損害が出たら、
それは戦とすらいえない。単なる虐殺だろう。
たとえそれが死者ではなく死傷者だとしてもありえないだろう。
勝頼、信豊、信廉、穴山、小山田は生き残ってるしさ。

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 20:05:32 ID:visVk2Jr
小幡信貞は死んでない(死んだのは親父の方)。
他に死んだ重臣といえば原昌胤がいる。
宿将だけではなく三枝、真田兄弟、土屋など若い将校も討ち死にしている。
目も当てられない惨敗で生き残った方から数えた方が早いぐらい。


94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 20:41:48 ID:WQ2g+O1H
高坂昌信の長男も討ち死してたな

95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/08(金) 20:57:12 ID:rlXg04Xf
三倍の法則ww

96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 14:17:22 ID:Ce3YiprG
『兼見卿記』では「数千騎討死」
『多聞院日記』は「甲斐国衆千人余討死」

身贔屓な『妙法寺記』よりは信用できそうな数

97 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/09/11(月) 02:06:43 ID:pSc8dRzE

・8割方の重臣が討ち死にした
・総大将の勝頼は生き残った
・本拠地の甲斐は無事である

以上の三点から、武田軍のおおよその死傷者数は推測可能である。

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 03:01:46 ID:DPFK8OWu
>>53
このサイト面白いな。
向こうの戦争って、勝因とか部隊の細かい動きを記した記録がきちんと残ってるのか。
それともあんまり鵜呑みにするべきじゃない?

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 08:08:16 ID://40uG+P
>>93
真田兄弟は若くないが

100 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/09/12(火) 15:20:15 ID:rs6ULOZ1
信玄公率いる武田隊は、槍や刀にウンコを塗りまくり、毒として使っていた。

当時の武田兵と戦った者で、傷口にウンコが染み込んだため壊疽を起こし、
手足を切断しなければならない者、高熱をだして悶え死にする者が後を絶たなかった。
現代で言えば、細菌兵器や劣化ウランと言ったところであろうか。

ある日、信長は宣教師らに「日本に来て一番印象に残った事は何か」と訊ねてみた。
「武田殿ノウンコ部隊デス、コノ事ヲ法王様ニ伝エヨウト思イマス」と、宣教師は答えた。
彼らの口から出た言葉に、信長は驚愕した。

このままでは日本が「ウンコ野郎の国」として、世界に広まってしまう。これは恥ずかしい。
それだけは阻止せねばなるまい。なんとしても。──信長は決意した。

そして信長は即座に、武田勝頼及び武田家臣団に、ウンコの使用をやめるよう勧告す。
しかし武田家は武田家で、伝統あるウンコ兵器を捨てるわけには行かない。
ついに決戦へ──、世に言う長篠・設楽原の戦いである。

101 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/09/12(火) 15:20:49 ID:rs6ULOZ1

後世の歴史家は、この長篠の戦いを、
「織田・徳川連合軍が、武田家を打ち破った戦い」と、記している。
しかし歴史家は、「人類の叡智が、山賊のウンコに、打ち勝った歴史的な戦い」
と、その認識を、おおきく改めるべきなのである。

ウンコの歴史がまた1ページ。


102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 07:06:06 ID:45ofvjJe
真面目にやれ カス

103 :地形を見ると:2006/09/17(日) 14:27:04 ID:C6W1BT49
設楽原の武田軍の背後は狭隘地。前進の時はここを越えて来ても、撤退時はこれを妨げる「死地」。
越えてもその先には鳶の巣5砦を陥した別働隊が。

退却戦で大被害は容易に想像はつく。
逆に考えれば勝頼は、この退却できない状況だったから、正面突破を仕掛けたかもしれん。

だが何故勝頼は、自ら逃げ道を塞ぐような行動をとったのか……
何かの理由で、おびき出されたか??


104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 14:39:43 ID:WsCYE18Z
武田軍は佐久間信盛が裏切ってくれると思っていた、という説。

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 17:06:24 ID:Dff0/5Ge
信長が本隊を反対斜面に隠蔽して実数を少なくしてみせた
あとは三方ヶ原明智城で武田との激突を避けようとした事から
戦意は低いとか勘違いしたとか

106 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/09/18(月) 00:46:18 ID:tPkb+RIZ

織田軍は膨大な火薬を持っていたのは間違いないので、
武田軍は、織田の鉄砲隊目掛けて火矢による集中的な
火攻めを仕掛けていれば、もしかすると勝っていたかも…?

否、勝てないにしろ、少なくとも大敗はしなかったろう。


107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 01:06:15 ID:37kEzKm0
>>103

理由は普通に勝頼が匹夫の勇だったから。
部将時代は先頭に立って鑓を振るっていたらしいからなw

108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 03:19:54 ID:R5j0UuaT
>>103
勝頼というか、討ち死した老臣達の希望のように見える。
信玄が織田と戦うことを決意して以来、大規模な決戦を望みながらもそういった機会は巡ってこなかった。
彼らは戦えば必ず勝つという自信を持っていたが故に、織田勢の戦力を一気に減じる好機と捉えたように思う。
たとえ少々の無理をしても。

もちろんこれは甲陽軍艦の記述とは正反対ではあるが・・・・

さて、これだけでは彼らが慢心していた為という結論にしかならない。
彼我の戦力の差が年月を増すごとに開いていくという、危機感が作用した結果だろうか。

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 04:57:50 ID:pSVv12bi
それは高坂の言動や山県の行動をみるとしっくりこないな

110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 07:44:00 ID:e81OiRly
甲陽軍艦自体が、徳川政権下で作ったものだよね。
で、家康は信玄に敗れている。つまり、信玄時代の武田家は徳川より強いわけだ。

しかし、織田は勝頼に勝ち、徳川は信長の死後、甲斐を侵奪した。
そういう経緯で、勝頼は愚将のレッテルを貼らねばならなくなった。

高坂、山県が何を言ったか、そのものが怪しいのでは?

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 07:52:17 ID:e81OiRly
110補足。スレ違いだから詳しくは触れないけど、
徳川は、甲斐を取る名分として川尻の事も悪政として非難しているらしい。

勝頼が史実以上に貶められている可能性は十分にある。
長篠合戦の、重臣達の特攻はもしかしたら
大名家の権力を、諏訪勢から取り戻す為の一世一代の賭けだったのかもしれない。

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 11:44:37 ID:MnuTpLGY
>>111

勝頼の再評価は長篠がある限り無理。
決戦の理由がどうであれ、あれだけの部将と将兵を失っておいて大将としての責任を免れられるわけがない。
長篠で主戦派だったのも、滅亡の際領民にも見限られていたのもすべて事実。

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 12:21:32 ID:Ft0045Ri
勝頼が名将だったと主張する気はないけど、甲陽軍艦的な評価は再考の余地有と思う。

全て、大将の責任、と言われてもな…。
そういうことなら、織田軍を全く崩せず、長篠で死んだ部将達も皆無能ということでFA?

>>長篠で主戦派だった
ごめん、ソースは?「甲陽軍艦」とかいう冗談はなしで。

>>滅亡の際領民にも見限られていた
所詮は、国人の連合体(とその象徴としての武田家、その当主)。
戦国時代は江戸期以降と違って現金な時代だから。


114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 12:29:55 ID:pdoQ8WBa
春日さんが書いた物を信用すんなよ

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 13:27:27 ID:FP2WVQ6X
>>113

>全て、大将の責任、と言われてもな…。
そういうことなら、織田軍を全く崩せず、長篠で死んだ部将達も皆無能ということでFA?

馬場や内藤は敵方に賞賛されてるし、勝頼が無能だなんて一言も言っていない。
トップが一番批判され、責任を負わされるのは当たり前の話。
甲陽軍鑑を否定するのは勝手だが、史料を示さないで想像で再評価されても困る。

>ごめん、ソースは?「甲陽軍艦」とかいう冗談はなしで。

合戦直前の後方の家臣団に宛てた勝頼の書状。
いくら鼓舞するためとはいえ、「今度こそ信長・家康の首を獲る」なんて
具体的に書いているんだから主戦派だったのは間違いないだろ。

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 13:38:42 ID:pdoQ8WBa
その場にいなかった長坂のせいにするような甲陽軍艦をしんじるな

117 :108:2006/09/18(月) 14:25:36 ID:Rq1HUWxS
甲陽軍艦じゃなくて、甲陽軍鑑だったね。
コピペによる誤植の連鎖反応が起きてしまった。失礼。

で、長篠の敗戦の責任が勝頼に帰することには同意。
これは大将だから逃れられないもの。
だが、家臣・軍勢含めた「武田家のあり方」が織田家には敵わなかった結果と見ている。
信玄ならどうか?という想像をしてはいけないのだろうけど、
もし信玄だったらこういう無茶は回避し、局面で数的或いは地勢的に有利な状況に持ち込めるチャンスを待つだろう。

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 15:14:36 ID:cyJNacr0
トップが責任・批判を一番うけるというのは当然だが、それと「能力の評価として、無能」とは
ならんだろうと思う。

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 16:56:45 ID:bbgSpZDl
だから誰も勝頼が無能だなんて言ってないんじゃないの。
甲陽軍鑑の評価で妥当ってところ。
先頭立って槍振りまわすのが得意であって、当主には荷が重かったんだろ。

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 17:05:39 ID:pdoQ8WBa
一門衆で終わっていればかなり名を轟かせたかもな

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/22(金) 21:53:04 ID:SLWD7KCD
織田と和睦するチャンスあったのに・・・

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/22(金) 22:41:59 ID:I5AjR+OM
トップに責任があることは確かだが
だからといって、有能な老臣たちの足をひっぱったんだ、とされると
それは、ひどいと思う。
結構、その家臣たちが無能だったと思ってる。
若い頃は有能だったかもしれないが。

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/24(日) 03:35:36 ID:fSgEdPJY
まあ有能だった人物は老害になりやすいというしな。

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/02(月) 01:25:56 ID:MZXl0u1b
私も城跡巡りや古戦場跡巡りが好きで、長篠城跡や設楽原に何度か行ったんですけど、103氏の意見に近いですね。

設楽原って結構狭いんですよね。
山筋が二つあって、南が織田徳川連合軍、北が武田軍。そして設楽原の北には未だ落ちない長篠城と長篠城を見下ろす武田の5砦。
武田勝頼は長篠城攻めに当たって、裏切った奥平の征伐が目的。
徳川も救援に来ないわけにはいけないから、徳川の援軍が来ても勝てる兵力(1万7千)で出兵した。
長篠城は、三輪川、寒狭川に囲まれた野牛郭は防護が硬いが大手門付近は平地で防御力がとても貧弱。
城兵は500、本気で攻めたらすぐ落城すると思うけど、目的は徳川を誘い出し再び完膚なきまでに叩きのめし遠江、三河を武田の勢力下に治めること。
家康が援軍に来なければ遠江や奥三河の豪族は家康を見限り武田になびくだろうし、徳川の勢力を大きく削ぐことができる。
家康が援軍に来たら来たで、三方ヶ原の再現で完膚なきまでに叩きのめし今度こそは家康の首を取る。

と思ってたら予想に反して何と信長自ら大軍引っさげて援軍にやってきた。
ちょっと計算違いだったけど、信長家康を討ち取るチャンスかもしてない。しかも、設楽原に陣取って動かないし、多分うちにビビッテる。
大軍でちょっと手前の設楽原で陣築いてたら、うちがビビッて兵を引くと思ってるな。よし、裏をかいてこっちも設楽原に兵を進めたる!(信長ビビるぞお!)

おいおい、援軍に来て何そんなに厳重に陣構築してるの?マジビビッてるw。
さあ、こっちもまったり陣築いて我慢比べだ。三方ヶ原の恐怖を思い起こさせてやる!

・・・翌早朝、突如背後の武田5砦に火の手が・・・!?!?!?。
敵は、軍を二手に分けて挟み撃つ気だな・・やべえな・・挟撃されたら兵力少ないうち壊滅じゃん。
・・ちょっと待てよ、敵が兵を分けたということは、正面の敵は少ないんじゃ?
このままじゃ、どの道挟撃喰らうし、自軍の兵力と正面の敵の兵力が互角くらいだろうから、突撃したら突き崩せるかも?
うまくいけば信長家康を討ち取れるチャンス到来!川中島の逆再現だ!

で、突撃開始!。
実際は砦攻撃に回ったのは、織田徳川連合軍3万8千のうちの4千で正面には武田軍の倍の3万4千が防護陣地の中で多数の鉄砲構えて待ち構えていた。
そして武田軍惨敗。

てなことを、武田勝頼の本陣跡に立って考えてたんですよ。
設楽原って狭いし殆ど水田だし、殆ど用水路とは言え連吾川もあるし、連合軍の馬防柵もあるし。
こんな状況で寡兵で突撃したら絶対勝てないと思ったんです。
でも、武田軍が突撃したということは、何らかの止むに止まれない理由があると思ったわけで、それで上記のような
妄想にひったったわけです。

長文ごめんなさい。





125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/02(月) 09:23:04 ID:2nCmKKNh
>>124
設楽腹があまりに狭いので少兵説が存在する。
織田徳川連合軍が一万五千で武田は八千程度。
一応、長篠城を攻める目的なら一万五千よりは説得力がある兵力だし、
織田徳川が意外に少ないのは武田が逃げないようにという事。
ただ信長は兵数を少なくする代わりに鉄砲を近畿の武将から借用し装備率を高め、野戦築城をしたりした。

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/02(月) 09:46:08 ID:qekw1gek
織田・徳川側も武田側も、双方通常の後詰にまつわる戦いからは外れた戦術を取ってるから興味深いね・・・
鳶巣山砦の強襲も上手くいったからいいようなものだが、
長久手の池田軍や賤ヶ岳の佐久間隊並にリスクを伴う攻撃だと思うし。

127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/02(月) 21:07:24 ID:4Qdmyggf
>>124

合戦前の書状読む限り、勝頼が決戦の決意をしたのは前日以前なのは間違いないよ。
ただし信長は包囲殲滅を狙っていたのは事実。

長篠城は本気で落とすつもりではなかったというのは同意。
勝頼には「雌雄を決するつもりである」や「信長・家康の首を獲る」と言い切る書状が頻繁に見られるから
いわゆる後詰めの常識は当時の武田には当てはまらない。

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 20:19:45 ID:U4+Umb3z
>>124
確定した説ではないけど、決戦当日以前にも18,19日の間に長篠城方面に
進出した織田軍を武田軍が蹴散らしてるともいわれてるけどね
それが勝頼を決戦に踏み切らせたともいうし


129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/08(日) 00:45:55 ID:Xaz8z0kD
散々、外出
闇に葬られた初戦って奴だろ

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/08(日) 18:57:20 ID:zb0AwThr
外出

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 15:32:54 ID:Vv+X+6Hz
この合戦では武田家、お得意の石投げはなかったの?

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 00:14:18 ID:Mijt30YL
あったら勝ってるよ


133 :騎馬隊:2006/10/26(木) 00:50:27 ID:hxJPX+gt
過去スレを読むと詳しい方が沢山おられますね。
…詳し過ぎる

◆戦術や思惑、兵の数、武器等いろいろな要因がありますが、信玄公亡き後…勝頼が迎えた一番重要且つ勝たねばならない戦であったという事です。

勝頼はカリスマであった信玄に負けないような采配を振るいたかったのです!
自分の力量を家臣や天下にしらしめて信玄亡くとも武田家最強を全国に示したかった!
勝頼は自信と不安が交差する変な精神状態だったと思います。それでも、不思議と負ける気はしていなかった筈。

勝頼自身、武田騎馬隊は最強無敵を信じて疑わなかった一人…しかし…相手は連合隊で数も多い!
しかも…火縄銃を用意して騎馬戦を避けた!
信玄なら兵を一旦引いたと思います。

しかし…勝頼は勝ちたかった…何としてもこの戦は負けてはならぬと言う気持ちが強すぎた
大局が見えなくなっていた…
兵を引くどころか…強行突破を命じる始末…
家臣も箴言したが聞く耳を持たない!
誰の話も耳に入らなくなってしまっているのだ…

その為に連合隊が描いた図式にキレイにハマッテしまったと…歴史学者の大先生が言っておられました。



134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 15:26:47 ID:v/KSBux+
疲弊した国力や兵農分離していないために出陣時期に左右されるため、
蜀の北伐や第2次大戦の日本のように常に勝たなければならず、あせりがあったと思う。
家臣団にとって勝頼は信玄の正当なる後継者ではなく、信頼を得るためには敗る事は
できなかった。そのため無理な合戦でも戦わなければならなくなった。
一見戦術面では有利に戦っているように感じていたが、落城するたびに守備兵を
配置するために兵力が分散されて、各個撃破されてしまう。戦線が広がりすぎて
救援が間に合わない、そこで決戦を急ぐことになってしまった。


135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 19:49:07 ID:zxoaS729
>>133
歴史学者というよりは講釈師みたいだな。

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 20:01:34 ID:NB111ufm
>>135
ほら。聴衆のレベルに合わせてあえてわかり易く、聴衆が望むであろう話を喋る人っているからさ。

>>133
・・・・・つか大先生なら名前書けば?

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 17:01:06 ID:aaQjwWsh
age

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 17:07:46 ID:ch28aZgZ
長篠=鉄砲とか何年前の人間だよ
長篠は鉄砲じゃなくて野戦築城だろ

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 17:56:01 ID:OqgiXvVT
>>126
リスクはたいしてともなってないだろ。
鳶の巣砦は徳川領でかつて知ってる砦だし、
徳川の精兵と織田の援軍の五百の鉄砲隊があれば
かなり勝算はあったろう。


140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 18:01:26 ID:OqgiXvVT
>>138
いや、そうともいえない。
信長は長篠の前に近畿の家臣から鉄砲を借用してまわってる。
細川から百丁、筒井から五十丁って具合にね。
それで少々、鉄砲の数を増やして戦に望んでる。
野戦築城の場合は鉄砲や弓矢での抵抗がかなり有利。
当時の史書でも鉄砲の暴威は普通に伝えられてるし、
あながち鉄砲という部分は軽視できない。
野戦築城を生かし、鉄砲、弓、投石で抵抗したというが真相だろう。

あと織田の鉄砲の数が千丁というのは設楽原に投入した分だけで、
他に鳶の巣砦に派兵した五百丁の鉄砲隊の記述もあるし、
信長公記には記されてない徳川の鉄砲の分を含めれば二千丁はあった。

加えて少兵説に従えばなかなかの鉄砲装備率であったわけだ。

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 18:11:36 ID:OqgiXvVT
このスレの
>>269-292あたりの議論を読んでみよう。

http://curry.2ch.net/warhis/kako/1024/10249/1024935089.html

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 20:21:01 ID:YG4trBBX
>>141
4年前のスレのくせに俺の知りたいことがだいたい書かれてらぁw

143 :名無しさん:2006/11/19(日) 03:45:35 ID:E6nsN5qK
俺のようなど素人が考えても半分もいないのに勝てるわけがない
それを決行したからやっぱり勝頼は無謀としか言いようがないね

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 11:22:04 ID:FfQXNSEP
>>143
無謀で片付けるには武田軍は歴戦の強者すぎないか?
考えなしに突撃するモヒカンどもとは違うんだぞ。

145 :名無しさん:2006/11/19(日) 15:36:36 ID:CHKK18v/
>>144
でも強いといえど1万5千で3万4000に仕掛けるのは
そのモヒカンと変わらん行為だぞ
撤退ができないほど武田が追い込まれていたのなら仕方ないが




146 :名無しさん:2006/11/19(日) 15:39:20 ID:CHKK18v/
孫子の兵法に勝つ事ばかりを知りて負ける事をしらざれば
害その身にいたるを地でやっているよな

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 16:13:25 ID:5pV6fYiz
退路あったの?

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/20(月) 06:57:44 ID:AtRwbOur
>>147
退いて退けないことはないだろう。
不利を恐れてジリ貧になっただけ。

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/20(月) 23:11:21 ID:YVln6Urk
>>145
まず相手が自軍の倍以上あったかどうかを把握していたかどうかだな。
いくら織田を弱兵と侮っても倍以上となれば話が異なる。信長は兵力を
かなり少なく見せていたか、それとも誰かに寝返りを約束する手紙を書かせて
信用させたか。ちょうど厳島の毛利みたいな感じで。

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/21(火) 18:59:27 ID:8P264Jzu
>>149
佐久間信盛が武田方に投降するって偽書状を送ったって話があるな
あれは何なんだろう?講談なのかな?
佐久間信盛が裏切るって報は武田方的には油断の要因としては十分だろうね
実際は織田方の激戦区の中心で押し返した厄介な相手になったけどね

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/21(火) 20:56:10 ID:iZH3Jy3f
中山砦、消える前に見て
http://www.chunichi.co.jp/00/ach/20061121/lcl_____ach_____005.shtml

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 16:41:46 ID:p+yHHls8
>>150
偽書状が事実だったとしたら、押し返したのは
佐久間の武勇では無く、武田の油断だろう。

153 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/06(土) 23:27:12 ID:C4U0iiHd
>>145
慶長の役の時に、黒田長政の配下の毛屋主水が偵察に出て大軍に囲まれたとき、
「このまま引いても全滅するから、一度強襲して退却しよう。
これは武田勝頼が長篠の敗戦後、攻勢に出て敵の追撃をゆるめた故知である」
…とか言った記録があるから、当時の勝頼の評価は低くはなかったのでは?

154 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 09:14:08 ID:yewvc2Do
信玄は若い頃の村上義清との敗戦経験で、10回算盤をはじいて、
10回とも勝ちとでなければ開戦しなかったけど、勝頼には敗戦経験
が無いからね。

しかも、若い頃に寡兵を陣頭指揮して敵の城をとったり、400の手勢で
数倍の謙信軍に立ち向かおうとしたり、猪突猛進型なのは否めない。

私は武田の滅亡を勝頼一人のせいにするのには反対で、言われてるほど勝頼
はだめぽではないエピソードはあるんだけど、長篠は弁解の余地がないほど
の大失策だよね。

高天神城を落としたのが、後々の不運への布石となってしまったな。

155 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 09:33:07 ID:yewvc2Do
実直な徳川秀忠が家臣から、
「殿も嘘の一つも、おつきになったらいかがですか」
と言われ、秀忠が、
「親父の嘘なら買う奴がいるが、私の嘘では買い手がいない」
と答えたそうです。
この話で、私は秀忠が好きになった。。

勝頼がこれ位、謙虚で身をわきまえていたらね・・
実際、山梨県に行くと、勝頼公がもう少ししっかりしていれば・・、
という声を聞けるよ。

物語的に考えると、諏訪氏を滅ぼし、その姫を側室にした因果が
巡ってきたとよく言われるけど、そうとも思えるようになってきた。

家康は武田の滅亡を、信玄が父親を追放し、自分の息子を殺した因果だと
言ってたけどね。



156 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 09:41:47 ID:nnyUdvmv
>>152
佐久間が無能であったというのは俗説らしいよ。
それどころか当時は織田の有能な大将の一人と評されていた。

ただ、石山本願寺攻めに長年かかった点とか
三方ヶ原で一兵も損せず逃亡した件が評価を下げてるが、
逆に言えば負ける戦はしない将とも言える。
本願寺は誰がやっても同じだし、
三方ヶ原は平手のように戦って死ぬか逃げて生きるかだけの違いだし。

157 ::2007/01/08(月) 10:44:06 ID:lyAmxqIE
長篠合戦は織田徳川連合の戦術的圧勝
砦を奇襲され背後を断たれることを懸念した武田軍は
城砦を構える連合軍本体に破滅的な突撃を繰り返した

158 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 10:52:45 ID:yewvc2Do
ゴルゴ13が背後に廻られるのを極端に警戒するように、
人間は後ろが弱点。

うちの大学の先生が、軍隊と言うのは前方には強いが、背後に
廻られると弱い。
その例として長篠合戦を例に出して、背後を取られた勝頼が焦っ
て前方に突撃命令を出したと言う定石通りの話をしていた。

159 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/09(火) 17:03:48 ID:FwDNTp0H
この地形で大野川西岸を制圧された武田は相当なヴァカじゃね?

160 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/09(火) 20:13:30 ID:/eZ6+G5j
この合戦、背後を断たれることを懸念したんじゃなくて、背後断たれてるよ。
鳶の巣砦周辺を取られた時点で、長篠城から2.6キロ先の別所街道の難所は完全に制圧されてる。
この難所周辺を500丁の鉄砲隊で押さえられたら、元来た道から撤退は無理だ。
1万5千の大軍が、別所街道を完全に押さえられて補給路も退路も断たれてるから、
徳川領の奥三河や、信濃の峠越えで相当な兵を失うのは目に見えてる。
退路と補給路を断たれて西に追い出された1.5万の軍勢が、
織田と徳川の追撃戦を覚悟して連吾川で対峙する。

161 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 01:12:49 ID:f7Ma/ged
だから同時進行だっつーの・・・

162 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 07:04:02 ID:V6BDuIgT
一万五千の軍隊を、細い山道を安全に退却させるなんて不可能。
侵攻して来た別所街道(最狭地はたったの100m)は完全封鎖。
足助方面は徳川領で道は細い山道で峠も有る。
退路も補給路も無いのである。
単に背後を突かれただけとは違うのを理解しないといけない。
ただ退却させるだけでは大渋滞に激しい追撃を受け戦わずして消耗は必至。
実際に討ち死にしたのは大部分が退却を開始し追撃を受けた時のもの。
結局、消耗するのを覚悟の上で突っ込んで、相手も消耗させてから少人数で退くしかないのである。

163 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 12:59:53 ID:b41B77y2
信長は追撃戦の鬼って感じだからな
桶狭間、刀禰崎、長篠・・・

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