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【宗麟】大友氏について語ろう【義統】

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 01:56:06 ID:/8zsYsEX
評価が分かれるような気がしますが。。。

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 02:14:25 ID:AeebkJ5u
性格が異様に粗暴だよね、宗麟。
大友氏最盛期を築いた人物でもあるし、難しいね。

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 03:03:20 ID:WUbkrIgH
関東三国志に比べて九州三国志は野蛮な人ばかりね

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 21:41:07 ID:LlMmdPMz
大友・好色
島津・陰湿
龍造寺・残忍
というイメージ

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 22:34:57 ID:ArfST8+j
キリスト教が彼を変えてしまったね
キリスト教に入り込んでなければ奈多氏の反乱や周囲との確執も無く戦国時代を生き残れていたのかもしれない

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 22:36:59 ID:AeebkJ5u
島津軍の豊後での行為は凄まじかったらしい。
その後の朝鮮出兵による男子減少とあいまって、「豊後後家」という言葉も生まれたそうだ。

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/04(火) 08:30:57 ID:MmIBTr4C
義統はどうしようもないな

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/04(火) 13:14:45 ID:ZciiPcYb
>>6
それは耳川の戦いによってじゃあなかったか?

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/05(水) 07:00:42 ID:ohO6jmt6
道雪が下半身不随という話は、豊後国内に残っている古文書にはほとんど
登場してこないので、あまり信憑性がないとのこと

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/05(水) 07:03:03 ID:ohO6jmt6

海音寺潮五郎
「ある時期にはすること為すことすべて卓抜であるが、ある時期には
暗愚といってもよいようなことしかしないのだ」
「憎いと思い、ほしいと思い立つと、矢も楯もたまらなくなるのが、
宗麟の性質なのだ」(武将列伝「大友宗麟」より)

11 :公孫参:2006/07/05(水) 10:44:55 ID:wMvsEqxL
妻は奈多神社の娘だよね

そこはうらやましい

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/05(水) 14:40:00 ID:SPVSoj16
今川氏真は蹴鞠。
織田信雄は舞。
大友義統は?

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 00:05:29 ID:5dkQ7pqJ
大友義統は和歌かな

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 02:15:32 ID:YUFRZ0qv
文書整理

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 13:36:28 ID:HPo1UOz5

無能なら北九州六カ国を占めることは不可能だったと思う。

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 15:52:04 ID:x7ddRkPw
>>13
サンクスd
人間、一つくらいは長所もあるもんだな…。
それにしても、宗麟って耳取川辺りまではよかったんだけどね。変な温情ある辺り(秋月や筑紫等)どっか長慶とだぶる気がする。

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 15:55:37 ID:tf39Nwiy
>>15
先代の遺産もあるし、
後で全部パーになってるし。

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/07(金) 03:58:18 ID:DTpMcH/+
九州王       :大友宗麟
雷神の化身    :立花道雪
西国無双      :立花宗茂
豊州3老      :吉弘鑑理、臼杵鑑速、吉岡長増
天正の楠木    :志賀親次
無双の槍使い  :吉弘統幸
豊後のヘラクレス:柴田礼能
蛇神の末裔    :佐伯家(大神一族)

イザベル      :奈多夫人
豊後の尼御前  :吉岡妙林尼
西国一の女丈夫 :立花ァ千代



19 :公孫参:2006/07/07(金) 11:28:27 ID:Scs7XPpY
高橋紹運がいませんね

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/07(金) 13:10:27 ID:Nn7Z8rby
立花宗茂
道雪出兵中に立花城に攻め寄せた秋月種実8千の軍を留守隊5百で撃破

島津忠長5万の軍を2千の兵で豊臣からの援軍上陸まで防ぎきる。撤退にかかった
島津軍に追撃をかけ追い払い、高鳥居城を攻略、さらに奪われた宝満城、岩屋城を
即座に奪い返した

志賀親次
豊薩戦争の折、肥後口から豊後に侵入してきた島津義弘軍3万7千の軍を恐れ内通しようと
した父を切腹させ岡城の城主となる。島津軍は兵をいくつかに分け岡城他の豊後の各城を
同時に攻略する作戦にでたが、岡城(千の軍と言われているが7万石×300で実際は2千くらい
あったと思われる)に攻め入った軍(新納忠元が指揮したと言われている)は3度に渡り撃破され
しかもその内の1戦においては島津得意の釣り野伏せを模した戦法で破られるという屈辱を受け
ている。岡城攻略をあきらめた島津軍は稲富新介に5千の兵を与え志賀軍に備え主力を北上さ
せるが、功を焦った稲富は独断で岡城を攻め親次に散々に打ち破られた。

佐伯惟定
豊薩戦争の折、日向口から侵入してきた島津家久軍(これも約1万の軍をいくつかに分散し佐伯
栂牟礼城(2万石×300で600+伊東家の残兵等で千くらいか)には家久の子豊久が攻めてきた)
島津からの使者を切り惟定は伊東家からの客将山田匡徳と組み惟定が正将として豊久軍に正面
から当たり注意を引いたところを匡徳が奇将として奇襲をかけるという戦法(立花道雪の正と奇の
軍法を模したと思われる)で島津軍を撃破した。

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 01:09:47 ID:27NJUJZa
>>19
紹運は異名とかがないのがなあ。
道雪に倣って風神の化身とかが
合いそうではあるが

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 15:04:18 ID:/e9EaSX2
おそらく紹運以上の軍事的実績のある吉弘鑑理にも単独の異名がないしな

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 20:16:54 ID:+3mGPbfG
>>22
2人に相応しい異名あるじゃないか。































                                  : __,,,,,,,,,,yww,,,,、    .l゚“''''z     l゚゚゚゚゚゚》
      :     .,r''',ラx,    ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,、   .l“゚” ̄:       `゚'i、  .,xネ  .タ--r,#━″ .゙''''=,,
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24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 20:33:36 ID:27NJUJZa
>>20
宗茂、親次に比べると目立たないんだけど佐伯惟定は結構強いんだよな。

佐伯氏は、蛇神・祖母嶽大明神(平家物語では高千穂)を祖とする 豊後大神一族

 耳川合戦の翌年7月、島津方与党が佐伯に侵入したのを11歳の惟定が撃退し、。
以後たびたび佐伯諸浦が襲撃されたが、惟定はよく奮戦し防御した。
 天正14年11月土持 親信、新名親秀 ら(豊久がいたかは不明)2千余人が佐伯に
出撃、惟定は千八百余の兵で堅田、鬼ケ原にて応戦、島津軍を撃退し、その戦死
者は千人を超え千人塚が建てられた。
 以後島津に寝返った柴田紹安の妻子が籠る星河城を落とし人質にとり、紹安を再度
寝返らせ、さらに土持 親信の朝日嶽城を落とした。豊後から撤退中の島津義弘、家久
が梓山を越えて日向に入ろうとしていたところを、佐伯軍が急襲し島津軍を敗走させ、
府内から奪われていた大友家の家宝を取り戻した。(着服したようだが)
 大友家改易後は藤堂高虎に仕え、慶長の役での元均との海戦や大阪の役の長宗我
部盛親との戦いに功があり、津祭りでは藤堂家の四天王として扱われている。



25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 20:54:37 ID:6eRdSuRq
>>6
豊後は戦国時代最も悲惨な目に遭った国かもね
島津軍の徹底的な略奪、その後入ってきた佐々成政の横暴といい・・・
フロイスの記述を見ると目を背けたくなるような生き地獄だったみたいだな

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 21:08:13 ID:vSJD08B9
>>25
佐々成政って豊後に関与したか?

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 21:29:30 ID:6eRdSuRq
>>26
すんません、佐々は肥後ですた・・・

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 19:45:25 ID:ZV58xkq1
大友宗麟って、大徳寺の高僧を豊後に呼んで、寺を建立し、家臣にも禅を
薦めるほど熱心だったけど、その後熱が冷めて、達磨像を海中にほおリ投げる
などの奇行を行い、上記の高僧は怒って京都に帰っちゃうんだよね。

それからキリスト教に凝って、あとは大友滅亡への道にまっしぐら。

宗麟の気まぐれ(家臣の妻レイプを含めて)に振り回された、優秀な家臣たち
がかわいそう。

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 09:33:06 ID:AwNPE22x
アホか。キリスト教を信仰したから滅亡した
というわけじゃないだろ。


30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 12:46:28 ID:IiNHCQml
>>24
>豊後から撤退中の島津義弘、家久
>が梓山を越えて日向に入ろうとしていたところを、佐伯軍が急襲し島津軍を敗走させ、
>府内から奪われていた大友家の家宝を取り戻した。(着服したようだが)
主君の家宝を着服したのかよw
島津に攻められる頃には密かに大友を見限ってたのかもしれないな

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 15:07:08 ID:b7GW1ncB
鎌倉の官吏公家として戦国まで残ったもの

中原→大友
大江→毛利
三善→三浦

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 17:01:13 ID:z438m1Hw
>>31
どこの三浦氏かな?

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 21:09:48 ID:PO1TbmLd
大友は鎌倉時代からの嫡流で安定しすぎたのがあだとなった。
島津家が同じ守護大名でも忠良が本家を圧倒する過程で
専制指導が可能になったのと違い、連判衆による合議制が最後まで
維持された。よって軍事活動はなにやら後手後手気味。

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 22:11:28 ID:cRBgknKc
>>30
佐伯家は大友家が来る前に事実上豊後を支配していた緒方三郎(源義経を九州に招こう
としたので流刑にされた)の子孫と言われる家で、佐伯は豊後から半独立状態だった。
それが、10代惟治の時に因縁つけられて大友家に攻められたり、12代惟教の時に小原
鑑元の乱に連座したとして、佐伯を追われて、その都度何年後かに帰ってきてるっていう
大友家臣団でもっとも大友に含むところがある一族なのだ。
島津に敵対したのも家久が父や祖父の仇だからって印象があるし、奪った家宝の肩衝も
大友家改易後すぐに藤堂高虎に仕えて献上して、さらに高虎から徳川家康に渡ってる。
それゆえかその肩衝は「佐伯肩衝」というそうだw


35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 22:52:32 ID:Vmvmzu4D
>>32
三浦半島かな?あと会津の蘆名も明らかに三浦一族。


36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/11(火) 01:40:10 ID:YIHSngnJ
北は大内、毛利 西は龍造寺、東は長宗我部、南からは島津
こんな状態でよく耐えたと思う。

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/11(火) 01:50:26 ID:YA79i6+i
少なくとも70年代以前は西と東と南の心配はなかったんじゃないかな

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/11(火) 10:07:32 ID:9Ugf5Kxt
結構果敢に結婚政策取ってますよね >70年以前
大内や島津とは親戚関係
大内が滅亡し、島津が代替わりして大友との血縁関係が断絶
大友も宗麟になって以降、結婚政策が微妙に変わった

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/12(水) 01:52:19 ID:D3JEn5LN
室町から戦国初期までずっと
渋川・大内 対 少弐・大友・菊池・島津の対立図式だったからな

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/12(水) 23:31:36 ID:TOfKt/Mw
秀吉に「最後の臆病者」と罵られた義統君。

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 03:02:25 ID:JUB67heI
まあそれが最後でなかったことは関ヶ原で証明されたがな

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 03:43:14 ID:my7RtH4u
吉弘統幸の言うこと聞いておけば・・・

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 09:52:30 ID:lxbGn9wB
志賀親次のせいだろ。義統は悪くないお( ^ω^)。

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 10:40:32 ID:A35/IVz+
結局志賀親次というのは大友をどうしたかったんだろう
島津の豊後攻めでは驚異的な防衛力を見せたかと思えば
朝鮮出兵では思いっきり主君の足を引っ張ってるし・・・

キリスト教に熱心だったことだけは分かるが・・・

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 19:18:29 ID:my7RtH4u
義統は豊薩戦争中に府内から逃げてた先でキリシタンになっていながら、
秀吉のキリシタン禁教令がでるやすぐさまキリシタンを弾圧して宣教師を
追放しだして、そのとき宣教師達を匿ったのが親次なんだよなあ。
秀吉に親次が言うことを聞かないと泣きつくと逆に秀吉から叱責される体
たらくだし、義統が秀吉から見限られてたのは確かだろう。
そもそも、朝鮮出兵時に親次が撤退を主張したっていうのも信憑性がない
し、大友改易後、親次が秀吉から日田を貰ってるとこを見ても原因は義統
の側にあると思うんだが

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 21:31:55 ID:HOqz1wlt
むしろ大友家は、「地理的」には恵まれていたと思う。
 海外との貿易を考えると、特に博多を押さえているという
事は、織田信長よりも商業的に有利である。(他の戦国大名は、
織田家を商業力で凌ぐ事はできません)
 本州と陸続きでない事の有利さは、毛利勢力を北九州から
撃退した事からも証明済み。「鳥無き島のコウモリ」である
長宗我部が四国であれだけ頑張ったのですから。

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 03:19:07 ID:6HaMF9eM
北の大内対策には少弐が盾になってくれてたしな

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 20:10:39 ID:bOZOr+QQ
ここは島津が怖くて泣きっ面で秀吉に助けを求めたヘタレのスレですか?

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 21:05:34 ID:x0ztjKPr
島津厨しねよ^^

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 23:25:29 ID:ajcjZjmD
>>45
>>48
ヘタレかどうかはともかく中央の権威を利用することで成立してた大名なのは確かだろうな>大友
考えてみれば義統(吉統)が志賀親次を秀吉にお願いして押さえつけようとしていたのも
オヤジの宗麟と同じようなことをした、つもりだったんだろうが・・・

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 13:46:42 ID:neRFsVDe
家系

* 父:大友義鑑

* 兄弟
o 女(一条房冬室)
o 女(河野通宣室)
o 義鎮
o 晴英(大内義長)
o 親貞
o 塩市丸

* 子
o 義統(吉統)
o 女(一条兼定室、清田鎮忠室)
o 女(久我三休室)
o 親家
o 女(臼杵統尚室)
o 女(小早川秀包室)
o 親盛

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 15:29:47 ID:bdPREIUs
近藤氏って鎌倉幕府の中でどういうポジションだったの?

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 17:18:12 ID:dKMyDLeJ
全盛期は北九州の殆どを支配し島津・龍造寺と互角に渡り合う猛将だったのに・・・晩年のへタレぶりは一体何なんだ?

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 23:55:52 ID:rLEBundz
>>51
土佐一条氏とは仲がいいね
というか大友名物中央名門指向か?

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 05:26:44 ID:IA42Wziq
優しくなったんじゃね?

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 19:27:23 ID:ic+KfHFA
『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいばかりに女たちを南蛮船に運び、
 獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫び、わめくさま地獄のごとし。』

ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、
ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、
交換に日本女性を奴隷船に連れ込んで海外で売りさばいたボスの中のボスであった。

キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、
ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、
キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。
 肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、
 奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。
 鉄の枷をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、
 もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。
 ポルトガル人の協会や師父が硝石(火薬の材料)と交換し、
 インドやアフリカまで売っている。』

日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、
キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。
しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、
火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。
キリシタン大名たちに神社・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。
数千万人の黒人奴隷がアメリカ大陸に運ばれ、数百万人の原住民が殺され、
数十万人の日本娘が世界中に売られた事実を、
今こそ、日本のキリスト教徒たちは考え、語り継がれよ。
その勇気があればの話だが。


鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」(p249-257)
徳富蘇峰『近世日本国民史』初版(秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録)

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/19(水) 00:09:33 ID:kBPFISFk
竜造寺のスレで宗麟はこんなのに!


       _ ,,, . .,,, _
    ,.、;',,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,.`丶.
    /,;;;;;;;;;;;;;:、- ‐ ' ''= 、;;,.ヽ
.   ,',;;;;;;;;;;;i'"         ヽ;,.'、
  {,;;;;;;;;;;;;{  _,,;;;;,、    ,,;,、;,.',
  _l,;;;;;;;;;厂 〃 .__、` ,r' ゙゙`'};;,.j
. { トヽ;;;;;!   '´ ̄ ` { '=ッ{;<      !   .  , ,      .
. ヽ.ゞさ;;}      ,.r'_ ,..)、  !;,.!  ヽ、_,人_,ノ、_,从,人.ィj、ノv1
  ヽニY    ,.r' _`;^´!  ,';/    )
    ヾ:、    ヾ= 三;〉 /'′ ‐=、´ どうも!!  豊後の大友宗麟っす!!
    ノ,;:::\   ` ー" , '      )  趣味は人妻漁りっす!!  みんな夜露死苦!!
 ,.、-',;;;{ ヾ:ヽ、 __ ,∠、       )
',,;;;{ {;;;;;;ヽ     }::〈;;;;;;;;l iヽ、   , '⌒r‐v'ヽィ'⌒Yソ、ト、!yヘ!
,;;;;;ヽ、ヽ;;;;\  ,r'::::ノ;;;;;;j j;;;;,.`ヽ、



58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/19(水) 00:10:54 ID:CEwJKAvU
ちなみにほかの家臣たちも…

      《
      ┃,.´ / 雷ヽヽ
      ┃! i iノノリ)) 〉 
      ┃i l l.´ヮ`ノリ 
 ワショーイ   ⊂ く/_只ヽ          
   /■\ ̄/■\道雪┐/■\
  ( ´∀`) ( ´∀`)    ( ´∀`) ワショーイ
  ⊂  ._つ⊂  ._つ ̄ ̄⊂  ._つ
   人 Y   人 Y  Y   人 Y
   し'(_)  し'(_)'(_)  し'(_)


59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/19(水) 00:14:27 ID:CEwJKAvU

        / ̄ ̄ ヽ,
       /        ', 
       {0}  /¨`ヽ {0}',   親貞…
      l///トェェェイ/// ',  
      ノ   `ー'′   ',    
     ,',ノ 斗ャ fて`Y  トミヽ    
    / {トミトv|'´ゝ } ノノ:l }:  
  :/イ { ゝィVr-ヘト、 ! ハ
.    | !|Y⌒'ミ{ヾ=' | /イ|
     ヽ人   |!   /\ :
       `'┬' トー'´  ヽ :
       :,/{、 || ,.|='´   } :


60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/19(水) 00:15:34 ID:CEwJKAvU
. ’      ’、   ′                         / ̄ ̄ ヽ,
   、′・. ’   ;   ’、 ’、′‘     / ̄"ヽ             /        ',
       ’、′・  ’、.・”;          b ,-、 d      ./" ̄"ヽ  {0} /¨`ヽ {0}
  ’、′  ’、(;;ノ;; (′‘・. ”     r-=、 |. `=' |_     .bi ,-、 id  |  ヽ._.ノ   |
’、′・  ( (´;^`⌒) ” ;  ’、′・  `゙ゝヽ、|   ノ  `ヽ、  / `=' ノ゙`ー |  `ー' / ̄ ̄ ヽ,
 、 ’、 ’・ 、´⌒,;y'⌒((´;;;;;ノ、"  ヽ ,、 にー `ヾヽ'"    .ィ"^゙i   _,,ノ ,  |    /        ',
    、(⌒ ;;;:;´'从 ;'   ;:;;) ; :) )、 ヽ ,.、 `~iヽ、. `~`''"´ ゙t (,, ̄, frノ   ゝ-‐ {0}  /¨`ヽ {0},
    ( ´;`ヾ,;⌒)´  从⌒ ;) `⌒ )⌒:ゝヽ、__l ヽ`iー- '''"´゙i, ヽ ヽ,/   /   l   ヽ._.ノ   ',
′‘: ;゜+°、::.:::::..、⌒) ;;:::)::.ノ W..,,」  .,->ヽi''"´::::ノ-ゝ ヽ、_ノー‐テ-/ i  |   `ー'′   ',
      `:::、 ...;:;_) ´...:ノ  ソ         ̄r==ミ__ィ'{-‐ニ二...,-ゝ、'″ /,/`ヽl : : ヽ        )'^`''ー-
                              lミ、  / f´  r''/'´ミ)ゝ^),ノ>''"  ,:イ`i / \      /
                             ! ヾ .il  l  l;;;ト、つノ,ノ /   /:ト-"ノ  \   /
                          .  l   ハ. l  l;;;;i _,,.:イ /   /  ,レ''"    ヽ_,,ノ
                             人 ヾニ゙i ヽ.l  yt,;ヽ  ゙v'′ ,:ィ"  /    r-'"´`i
                         r'"::::ゝ、_ノ  ゙i_,/  l ヽ  ゙':く´ _,,.〃_    f´'     ll
                         ` ̄´     /  l  ヽ   ヾ"/  `゙''ーハ.     l

大友一族…


61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/19(水) 00:17:04 ID:CEwJKAvU
:::::::::: .  从::::::     ,,ヽヽヽ、  ヽ、 ( ) ノ  ノ''/^|   ヾ  <
::::::::::彡  /::::::::::::   ''、\((n\   ), )/ ( /、n))/    ミ;;,, ミ
::::::::彡 ..::и/:::::::::::....::::::::::::::...ミ三\'''' ':;;ノ;;;;ゞ `´//彡⌒   ヾ  ミ
:::::::/イ::::::::^从:::::::::::/⌒ヽ:::::::_ ̄\ ヾヽ,,(//ン;;;;、     ミ 、从
::::::::7;:::::::::::::::::'''w::::::::::::(⌒::::::::::::: ̄>   V ' //,-ー;;  '´):. 从  ヽ ,|
:::::::7::::::::::::::::::::::::::'''z::::::::::::::,i,::::::::::⌒   \   / -^   lll.:::从   | |
::::彡::::::::::::::::::::::::::::::''''z;;;;;;、:'lii:::::::::  ,   )::、(  ,..、  lll::w^::|   N |
:::从::::::::::::::::::::/::::::::::::::::::::''\:|::::;:::::::... '';;--------;;、  〈/::::::::::ミ   ミ ,|
:::|:|:::::::::::::::::::::|/::::::::::::::::::::/:::〈:|:::;:::::::::::(llll;;;:::::;i:::::::;;,,/  ; |:::::::::::::ミ   '| |
::从:/::::::::::::::/::::::::::::::::::::':i:i:::::\::::::::::::::`''';;llllll|llllll;;''   '/::::::::::::ミ   '|| ヽ
::::从:::::::::::::::::从/::::::::::::::::::':':l::;;;;;\;;:::::::::::::::::;;;;;;;;;,   _/:::|:::::::::ト    .∧、∧、∧、∧、∧、
::::::从::::::::::::::::::И/|::::::::::::::::::::::;;;;;l;;||lll|--,'''''''''、 '''''''''-'''|::::i|l::::::::从 . : :┌´
::::/::::/::::::::::::::::::://::i::::::::::::::::::::;;;;;;|,,||ll|. λ || λ |lノ'| |/:i从:::::::从...::::<
::(:::イ::|::::::::::::::::::i:/从:::::::::::::::::::;;;;;;;;;l||l|λ^',::V;;|/::;λ/|ノ'':::::::::::从::::::::<   
:::::::::::从::::::::::::::从:|l:|N:::::;:::;;:;:;;;;;;;;;;;;;|lll||.ヾ;;::::::|:::::;;ノ ||l|:::::::::::::::|:|:::::::::::< 紹運…
:::::::、wv\|ヽ:::::::|;;;|;;从;i;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|ll|> | V^V^l/ト'//:::::::::::|::从::::::::/|:ム
        ~~''''::;;|;;;;从从|;;;;;;;;;;;;;;;;ヾミミ^-^-^ 彡'/::::::i:::/|/::::::::从::::::::∨^ ∨^ ∨^ ∨^ ∨^

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/19(水) 00:20:27 ID:CEwJKAvU

          ∩_ヽノ_∩
       / ノ        ヽ
       |    ●   ● |
       |  __( _●_)_ミ  クマー
       |  /ハ/     \ハ
       | | リノ    `ヽ}_}|  ぎん千代…
       | |从 ●    ●l |      
       l l⊂⊃ 、_,、_, ⊂i|   
    /⌒ヽ丶        ノ__/⌒)      
    ヽ   \  、 __, <    /
      ヽ           /
     /           /


63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/19(水) 01:21:35 ID:1aG2jFR6
   ∩___∩
   | ノ      ヽ
  /  ●   ● |   クマー! ついに大友スレできたのかクマ
  |    ( _●_)  ミ   宗麟くん、おめでとうクマ
 彡、   |∪|  、`\
/ __  ヽノ /´>  )
(___)   / (_/
 |       /
 |  /\ \
 | /    )  )
 ∪    (  \
       \_)


64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/19(水) 22:27:18 ID:5PXBQga5
>>63
竜造寺ー!島津、島津

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 22:24:36 ID:nbfBbGth
 
    _ ,,, . .,,, _
    ,.、;',,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,.`丶.
    /,;;;;;;;;;;;;;:、- ‐ ' ''= 、;;,.ヽ
.   ,',;;;;;;;;;;;i'"         ヽ;,.'、
  {,;;;;;;;;;;;;{  _,,;;;;,、    ,,;,、;,.',
  _l,;;;;;;;;;厂 〃 .__、` ,r' ゙゙`'};;,.j
. { トヽ;;;;;!   '´ ̄ ` { '=ッ{;<      !   .  , ,      .
. ヽ.ゞさ;;}      ,.r'_ ,..)、  !;,.!  ヽ、_,人_,ノ、_,从,人.ィj、ノv1
  ヽニY    ,.r' _`;^´!  ,';/    )
    ヾ:、    ヾ= 三;〉 /'′ ‐=、´  誰か俺がいただいた人妻の一覧よろしく!
    ノ,;:::\   ` ー" , '      ) 
 ,.、-',;;;{ ヾ:ヽ、 __ ,∠、       )
',,;;;{ {;;;;;;ヽ     }::〈;;;;;;;;l iヽ、   , '⌒r‐v'ヽィ'⌒Yソ、ト、!yヘ!
,;;;;;ヽ、ヽ;;;;\  ,r'::::ノ;;;;;;j j;;;;,.`ヽ、


66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/21(金) 19:31:38 ID:fhKipFOE
雷神を斬った立花道雪
風を起こし、脇差を召喚できたという角隈石宗
先祖が蛇な佐伯一族

まったくファンタジーな連中だぜ

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 04:38:50 ID:MoT0PC7C
宗麟が家督とって直ぐの肥後菊池攻めでは、
菊池だけでなく、肥後・筑後の反大友勢力の一掃まではできなかったの?
肥後をギタギタにして、鑑理か道雪に7万〜10万石を与えておけば
良かったのになぁと思う。


68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 04:42:01 ID:MoT0PC7C
筑前・豊前も、原田・秋月・筑紫・麻生・宗像なんぞを
最初に一気にギタギタにできなかったの?

おもいっきり弱そうなんだけどなぁ


69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 08:13:53 ID:+k8WDS0h
攻め滅ぼしても後の統治に支障出る

70 :筑柴バニラ ◆IRONpwU/Mk :2006/07/23(日) 10:11:49 ID:F9Lqdlsb
秋月・筑紫は1557年にギタギタにされてますね♪
秋月文種は自決(諸説アリ)嫡子晴種は戦死♪
残った3児と筑紫親子は毛利の下へ落ち延びてます〜♪


71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 21:00:45 ID:jaFuCjDz
>>68 北条や上杉も神保や里見程度にてこずっているからな。
   ゲームみたいに大規模な掃討戦はできないし。

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 22:00:30 ID:Q/MpmnDZ
白百合は散ったみたいな形式のサイトがあったの知ってる人いる?
あれまだあるのかな?

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 00:25:03 ID:Mdsj1JJh
志賀親次と佐伯惟定って大友家潰れた後、どうなったの

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 01:34:03 ID:FaLCYp3h
志賀親次は浪人の主君義統に従い、関が原の際に西軍方として挙兵。
黒田に敗北し戦死。

75 :バロン曽志崎:2006/07/25(火) 02:00:26 ID:e5XLCDDC
最終的には、志賀は細川家の家臣、佐伯は藤堂家の家臣。

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 02:51:28 ID:n0UkBeq1
>>74
それは吉弘統幸な。
最初は善戦してたが、旧知の井上九郎右衛門との一騎討ちの末戦死

親次は日田1郡の領主→福島正則→小早川秀秋→細川忠興と流転


77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 11:31:46 ID:Y6Wj1euQ
>>74-76 サンクス

細川家と藤堂家とはまた大会社に転職しましたね。
志賀家の系図みてみたら親次の娘が佐伯惟定の息子の嫁なんだ。
知らなかった。


78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 12:24:14 ID:SkGDh9Hy
ちょっと記憶が曖昧なのだが
志賀親次に与えられていた日田は
切支丹がらみで没収されたんだったっけ?

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 14:10:02 ID:mH4fhvS0
41 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/07/25(火) 13:46:27
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/products/nakagawake/Jpeg/700/3450/34500057.jpg
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/products/nakagawake/kaidai61.html
後の石垣原の戦いの伏線になるのかしらん
大友氏をしたっていた国人が多かったのか
それとも単に秀吉boo!の国人が多かったのか
興味深い文書ではある。

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 18:18:56 ID:n0UkBeq1
http://www2.city.usuki.oita.jp/kyouiku/mamoru/saihakken/simokita/kuriyamajousi.htm

実際旧大友家臣への扱いには酷い話が多いから不満も多かったんだろうね。

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/27(木) 01:23:05 ID:hxF6WyAj
宗麟が家督を継ぐ契機となった二階崩れの変からでもわかるように、
決して磐石の家中ではなかった。
家督相続後も家中が急に一枚板にまとまるわけでもなく、
依然として服していない家臣は多く、宗麟を暗殺する計画だってあったくらいだ。
そんな万全とはいえない状況でのスタートだった。

50年に宗麟が家督を継いだ翌年に大内で陶晴賢の謀叛が起こる。
晴賢の要請で実弟晴英を大内の養子に出して大内家の家督を継がせてる。
俺が一番宗麟を評価している点は何をおいても外交能力。
九州は大分という、現在でも僻地に本拠を置きながらも、
相続した豊後、筑後の守護職のみならず、
大内の支配下にあった豊前、筑前を攻める時には豊前、筑前の守護職を、
龍造寺と敵対する時には肥前の守護職をと、
攻める先々、欲する土地の守護職を獲得していき、
結局59年には九州北部六カ国の守護職に加えて九州探題まで運動して獲得している。
信長みたいな革命者を知っている我々にはこうした旧体制を利用した統治、
国人掌握は古い手に映るだろうが、九州のような土地柄には権威で持って当たるのは正解だと思う。
その割に宣教師を招き、布教を許し、自らもキリシタンに帰依し、インドに家臣を派遣したり、
ポルトガル国王に親書を送ったり、日本発の西洋式病院を作ったりもしてる。
もちろんキリスト教への入信は、南蛮貿易のためであり、
鉄砲や大筒を手に入れて、将軍に鉄砲を献上したりもしている。
宗麟は間違いなく外交や諜報の能力に秀でていたはずなのだが、
反面、自身は粗暴で他人を省みず、利用するはずだったキリシタン信仰に傾倒し、
神社仏閣を破壊して、人臣の心が離れるがままにしているし、
家臣を見る目もなく、賢臣の上申には耳をかさず、能力の無い者に大兵を率いさせている。
円熟期にあった毛利元就を、尼子と結び、旧大内の勢力を利用して、北九州から一掃したり、
島津に敗色濃厚となると、自ら大阪城で秀吉に謁見して支援を取り付けてくるなど、
外交面ではやはり見るべきところがあるだけに惜しい。
秀吉の九州征伐後、豊後と日向を与えられたのに、日向を辞退しているところから見ても、
76年に家督を譲ってからは政治的野心を失ってしまったと見るべきか。
嫡子の義統に才覚が無かったことが宗麟の後半生にも悪名を着せていると思う。


82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/27(木) 04:05:12 ID:m7DeS389
>>78

天領っていわれてるけどキリシタンで没収されたんだ。
勉強になったよ

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/27(木) 18:36:42 ID:XEftF4RL
佐伯惟定は祖母神大明神の末裔というだけあってか
神道に傾倒してたぽいな。
わざわざ加賀から佐伯までキクリヒメの像を取り寄せたり
してたらしい。

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/27(木) 21:26:17 ID:GWLvOOnA
513 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:02/04/14(日) 00:12
今山合戦で龍造寺が勝利したというのは、ある程度事実ですが
大友が大敗したとか宗麟が逃げ帰ったとか言うのは捏造です。

佐賀藩以外の史料で検証してみましょう。
八月十三日付けで、今山合戦直前に肥前国人の横岳鎮貞・江上武種に知行充行状が発行されてる。
宛がわれたのは肥前の龍造寺氏の所領か勢力圏で、その後、今山合戦の後の十一月八日付けで
与える坪付が充行状通りに両名に発給されてる。
他に充行状は残ってないが、神代長良に、佐賀・小城両郡内で二千町を超える恩賞が与えられてる。

「九州治乱記」にも引用されてる書状に、八月二十日付で大友宗麟から田尻鑑種宛に
今山敗戦に接し、自ら肥前国境を流れる筑後川を越え、対岸の肥前千栗まで兵を進めると書いてある。
すなわち、今山合戦後も大友の本隊は依然として高良山に駐留しており、健在だった。
その後、十月二十三日付けで、大友宗麟から龍造寺隆信・鎮賢父子宛てに起請文が出てるが
それには隆信が大友の年寄へ起請文が提出して降伏の意を伝えてきたので、それを受け入れると書いてある。

その五日後、宗麟は隆信を赦免して、十一月まで戦後処理を行なって帰陣してる。
その後、元亀三年に隆信と筑紫広門・横岳鎮貞との間に所領紛争が起きるが、大友が三者間の調停に乗り出し
それが不備に終ると大友は「逆臣顕然」という理由で、隆信討伐の軍勢を、勢力圏内の諸勢力へ催促してる。
結局、隆信は天正五年に周辺勢力を仲介して、大友の裁定に従ってる。
また、天正六年には大友から龍造寺に対して、日向方面への出陣命令が出てる。

以上の事から、今山合戦で龍造寺は勝利したものの、局地戦での勝利に過ぎず
今山合戦を含む元亀元年の戦いは大友が勝利して、今までの通説であった
「今山合戦後に肥前から大友の勢力を駆逐した」というのは間違いであり
その後も大友氏は肥前に多大な影響力を及ぼしてる。

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 21:10:40 ID:yuxdlXQQ
臼杵安房守(紹冊)が博多の南に房州堀を掘り、また博多の東側を開削して
御笠川(比恵川・石堂川)を北流させたといわれている。これで博多は、北は
海、東西を川、南を堀によって囲まれることになった。

・・・はずなんだけど、博多のwikiだと黒田家がやったことにされてるな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9A%E5%A4%9A

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/02(水) 03:38:16 ID:rbeCS7Fe
>>71
おそらく実際はゲームほど戦力差がなかったんだろうね

87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 02:07:51 ID:zsjPT0fH
大友って聞くとどうしても家臣の方に目がいってしまうな

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 20:59:35 ID:OP64qyqD
武田家に匹敵する家臣団って言われてるけど、キャラの濃さなら
勝ってる気がする。

89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 21:04:52 ID:oV+E51JT
「家臣の謀反史」という本を出すと、
大友家が一番充実した内容になる気がする。

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 21:34:55 ID:pqy4OxsZ
>>89
『戦国大名 家臣の謀反史事典』
戦国時代の日本、下克上により、家臣が反旗を翻した例はいとまがありません。
この本では、それらの複雑な事情を歴史研究専門家でない人にもわかりやすく、
また、歴史研究を志す人にも広い視野で実態をつかめるように人物関係など
工夫を凝らした編集がされています。

上巻:東日本編(南部、伊達、武田など東海以東) 全500ページ
中巻:西日本編(織田、大内など近畿以西 但し大友除く) 全450ページ
下巻:大友編 全400ページ

出版社 民明書房

91 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/08/05(土) 00:08:52 ID:gdu+CyAn
一瞬amazonを開こうとした自分が恥ずかしい。

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 00:20:07 ID:t/egBSIm
あら、奇矯屋onぷらっとさんお久しぶり。

大友領内での家臣の謀反は、バラエティーに富んでいるね。
立花鑑載、兄絡みの高橋鑑種、田北、田原、秋月、謀反のデパートだね。

93 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/08/05(土) 00:24:15 ID:gdu+CyAn
立花鑑載・高橋鑑種・田北紹鉄

規模でいうならこの三人かな。田原親貫は一等劣るイメージ。

94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 00:40:35 ID:t/egBSIm
田原は親子二代で謀反の姿勢を出していたのが、しつこさを感じる。
また、親賢より大きな本家で、大友家に強い影響力を持っていたしね。

95 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/08/05(土) 00:42:57 ID:gdu+CyAn
奈多氏?

96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 02:57:00 ID:rPiwBnEa
無名に近い弱小武士の古荘郷司近藤能成の子が大友能直。
母親が源頼朝の妾だったので抜擢され、頼朝の稚児に。
それが無名に近い大友氏のその後の興隆の所以?

97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 10:03:23 ID:sjoQhISL
緒方三郎が失脚して、たなぼたで豊後の守護になったのが
きっかけじゃないかな

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/06(日) 03:29:09 ID:GDwgQWPp
無名って言われるけど近藤氏って藤原秀郷・利仁両巨頭の血を継ぐ一族だよな

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/06(日) 19:26:29 ID:GQhiWH7c
田原紹忍
宗像鎮続
吉弘喜兵衛

は最後まで大友家と共にしたんじゃなかったっけ?

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/06(日) 20:54:26 ID:1+Peyk4I
秀吉は大友家改易後。田原紹忍に3000石・宗像鎮続には2000石を与え、
岡城の中川秀成に身柄を預けたんだけど、吉統の挙兵に応じて中川家の
旗を持ち出して参加。鎮続は石垣原で戦死。紹忍は中原家から旗を持ち出した
ことを咎められ前線に送られて戦死。
吉弘喜兵衛は従兄弟の立花宗茂に2000石で仕えていたんだけど家康の下に
いた大友義乗のところに行く途中で吉統の挙兵を知り見過ごせずに参加、東軍
につくように進言するんだけど、聞き入れられず石垣原で旧知の井上九郎衛門
との一騎打ちの末戦死。

101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/07(月) 10:44:22 ID:lju2F4y6
>>98
まあ系譜上ではな。
しかし、鎌倉時代なら、武家なら大抵はそういう系譜を持っている。
だからそれは当たり前のことで、当時、問題なのは、何代も前の先祖ではなく、
親や祖父、曾祖父くらい。
例えば藤原氏でも貴種筋の出の藤原純友が海賊になたのは、幼少の時に父親や祖父が死に、
いわば後見人がいなくなり出世の術がなくなり、地方官にしかなれなかったことがある。
鎌倉時代の名だたる武家に比べれば大友能直の出の近藤氏は家格の低さや無名性は否定のしようがない。
逆にいえば、だからこそ頼朝にとってはうってつけだったのであり、能直の母親が妾でもあったことから、
自分の意志の代行者として抜擢したのだろう。
大友に限らず、頼朝が九州に送り込んだ、島津や少弐も似たようなもの。
島津も惟宗氏というがはっきりしないし、おまけに大友と同じく頼朝の落胤というホラ話しを持っている。
少弐は武藤頼平は藤原秀郷の子孫というが、少弐を興隆させた養子の資頼は先祖不詳。
つまり、大友、島津、少弐はいずれも鎌倉では弱小の武家であり、頼朝にとっては彼らこそが、
自分の意志の担い手として好都合だった。

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 09:04:05 ID:wt5fwiJP
>>101
憶測で言うなw
古庄(近藤)能成の妻は波多野氏から迎えている。
同じく中原氏も同様に波多野氏から嫁を迎えている。
家格が低いならどうして波多野氏と血縁を結べようか?

大友氏が源氏を名乗ったのは江戸時代に入ってから。
実際、足利尊氏の猶子になっているし、源氏でもある。
それ以前までは、堂々と藤原である。

大友氏が藤原秀郷系であることは明白である。
一族一門衆に、同系が多い事も補強証拠であるし、
関東に残った笠原氏など、明白に秀郷流。



103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 09:13:49 ID:wt5fwiJP
>>101
>>大友は弱小の武家であり
大友能直は政所の次席である。
大江広元の兄(従兄説あり)の中原親能の猶子でもあり、
決して弱小とはいえない。
そもそも、頼朝知行国7カ国の内、2カ国の守護に任じられている。





104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 19:53:21 ID:VKLzHraN
しかし、それらは近藤能直の母親が頼朝の妾だったことによる抜擢の結果。
能直の父親の近藤能成やその父(つまり能直の祖父)の事跡は何?

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 21:10:12 ID:wt5fwiJP
頼朝の妻だとの根拠は?
近藤能直の母親は波多野氏からきてますけど。。



106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/13(日) 02:03:53 ID:gCPTOCJo
>105
頼朝の「妻」じゃなくて「妾」。
出が波多野氏だろうが関係ないのではないか。

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/13(日) 14:23:58 ID:zgozInLR
その根拠は?
波多野氏は頼朝挙兵に参加せずに対立していたけど、
頼朝の側室になったとは、事ないぞ。
よかったら根拠教えてくれ。


108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/13(日) 14:29:39 ID:zgozInLR
大友(古庄)能直の母が頼朝の側室ということは、
能直は、頼朝の義理の息子ということだよ。
それを大友氏が政治的に利用しないとは考えられない。
大友氏が源氏名乗ったのは、江戸時代に入ってから。
足利尊氏の猶子になっても、桐紋を許されても
源を名乗らなかったのに。おかしくない?
喧嘩売るつもりはないから、よろしく。

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/13(日) 15:48:55 ID:gCPTOCJo
>>107
例えば
http://www2.harimaya.com/otomo/html/ot_roots.html

110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 00:50:37 ID:L2ArRduY
↑どうも。
妾説をとると、能直は頼朝の実子ということになるよ。
http://www2.harimaya.com/otomo/html/ot_roots.html
これには、そうなってる。 
でも落胤説は違うよ。



111 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/08/14(月) 00:58:32 ID:o2n1HPQA
>大友氏は源姓を用いているが、これを頼朝の落胤であるからとしているが、大友氏のうちで源姓を初めて用いた
>のは南北朝時代初期の氏泰からである。建武三年(1336)、足利尊氏は後醍醐天皇に背いて、九州に逃れた。
>このとき氏泰は忠節を尽くし、尊氏から兄弟を猶子の関係として認めるという御教書を受けている。氏泰の「氏」は>尊氏から偏諱を賜ったもので、弟の氏時もまた同じである。これから以後、大友氏は源姓を名乗っている。すな
>わち、頼朝との血縁関係からではないことが知られる。

ここで一発打消しやん。

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 18:41:00 ID:UhlOJUN0
>>110
『大友興亡記』や『大友記』『豊後国志』などに、能直の母親が頼朝の妾と書いてあるらしい。

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 02:40:09 ID:R2Rmvwiq
頼朝の落胤を主張せずとも
源氏を名乗れるのが、大友氏。
尊氏の猶子だからね。
しかし、大友は江戸に入るまでは、使い分けていたけれど、
正式な名乗りは藤原である。
そもそも、大友は源氏であることにこだわっていなく、
政治的に利用しているだけ。実際に源氏である資格はあるけれどね。
義鑑時代の家臣編成図において、大友は一族の氏を藤原としていることから
も、大友氏が氏を藤原氏としていたのは確か。
ただし、足利に対しては源氏を名乗ってた。
たんに、源氏を許されただけではなく、猶子になっているからね。



114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 02:52:04 ID:R2Rmvwiq
そもそも、大友能直公が頼朝の落胤でないことは既に周知の事実。
ただ、そう噂されても不思議ではないほど源氏と所縁は深いし、
実際に源氏を名乗れる資格があるという事。
偽源氏の徳川が、源氏を有り難がるものだから、
名門故に高家になった(源氏だからなった訳ではない)
大友氏が、其の資格を利用して源氏を名乗っただけ。
そこいらの家が、偽の源氏を名乗ったのと違うの。
実際其の資格はあるし、そもそも堂々の藤原で、一貫してそれを
名乗っていた。一族の墓をみてみて。藤原ってなってるぞ。



115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 21:26:24 ID:mFnCDaOY
大友が藤原氏か源氏かはどうでもいい。
能直の母親が頼朝の妾だったため能直が頼朝の寵愛を受け、
弱小武家の近藤氏の出の能直が、その後の九州三大名の一つの大友氏の祖になれたということ。


116 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/08/15(火) 21:29:55 ID:fBqPgZ9j
当時の大名家にとって、姓がどうでもいいことはなかろ。

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 06:01:03 ID:w+DkWrWY
>>115
http://www2.harimaya.com/otomo/html/ot_roots.html
よく読んでみな。
この見解によると、能直公は頼朝の実子なの。
頼朝の落胤とするために、側室としているの。
妾だから出世したという見解ではないよ。

比較の問題もあるけど、古庄(近藤)家は決して弱小ではないよ。
波多野氏や中原親能や大江広元と親類だよ。

砕けて書けば、波多野氏は数千の兵力がある大豪族だよ。
頼朝はどうしても波多野氏の協力を望んでいた。
古庄氏の猶子関係の武藤氏の出世を考えても、単にお気に入りだけでは
ないと思われる。



118 :115じゃないけど:2006/08/16(水) 10:59:42 ID:b74QXulp
>>117
>http://www2.harimaya.com/otomo/html/ot_roots.html
>よく読んでみな。
>この見解によると、能直公は頼朝の実子なの。

紹介されているリンクをどう読めば「能直は頼朝の実子」になるのかワカラン。
最後の方で
「能直の父に比定される人物は近藤能成以外には求めることはできないのではないか。
『尊卑分脈』の「大友氏系図」は正しいとみるのが妥当ではないだろうか。 」
と書いてあるじゃん。

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 20:49:40 ID:i8sy0qjl
もーう、読解力ないなぁ・・
あのね、大友能直公の母が頼朝の妾という見解に基づけば、能直公は頼朝
の落胤だと言ってるにすぎないの。別の言い方をすれば、妾説に立ちなが
ら、能直公は頼朝の落胤であることを否定する結論、及び妾であった故に
卿が落胤でないにもかかわらず出世したという結論は、論理的に導かれな
いという事。 
 これを言いたかっただけ。

120 :続き:2006/08/16(水) 21:01:02 ID:i8sy0qjl
なんとなれば、115は妾説に立ちながら、一方で能直公が頼朝の
落胤であることを否定しており背理であるからである。
そして、115は>http://www2.harimaya.com/otomo/html/ot_roots.html
をその根拠としているからである。
 
 「この見解によると」って言い方がわるかったかな。
「頼朝の落胤とするために、側室としているの。」
 「妾だから出世したという見解ではないよ。」
   
 最低限の言い方しかしないオレも悪いけどさぁ。

121 :続き:2006/08/16(水) 21:03:31 ID:i8sy0qjl
「頼朝の落胤とするために、側室としているの。」
「妾だから出世したという見解ではないよ。」
 
 この2文から俺が、http://www2.harimaya.com/otomo/html/ot_roots.html
 が頼朝落胤説をとっていないってわかってよ。
 国語うるさくてごめん。
 


122 :続き:2006/08/16(水) 21:06:38 ID:i8sy0qjl
端折ってごめん。http://www2.harimaya.com/otomo/html/ot_roots.html
が頼朝落胤説を否定している見解である事を、俺が当然の前提に
しているという事わかってね。

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 16:10:15 ID:cWDaXXdQ
能直の母親が頼朝の妾だったとしても、能直が頼朝の子だとはいえない。
能直は、古荘の郷司の近藤能成の子で、能成の妻が頼朝の妾になっただけだろう。


124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 16:18:11 ID:cWDaXXdQ
>>117
「波多野氏や中原親能や大江広元と親類だよ」。
母方の波多野氏はともかく、中原氏や大江氏は血縁関係はない。
現在でいえば婚族的親戚にすぎず、婚族的親戚は挙げていけばきりがないよ。
それよりもなぜ、能直が中原親能の猶子になったりしたのかということ。
能直に能力があり、中原親能が気に入ったのかもしれないが、
それだけでは、わざわざ猶子にはならないだろう。
やはり古庄の郷司という近藤氏の家格の低さや弱小性に関連があったのではないか。
だから幕府の要職にあった中原親能の猶子になり、出自の家格を上げたのだと思われる。
もちろん、そればかりではないだろうが。

125 :念のため:2006/08/17(木) 16:20:31 ID:cWDaXXdQ
近藤氏の家格の低さと書いたが、それはあくまでも鎌倉の御家人の中での
相対的な低さにすぎず、絶対的なものではないということ。

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 18:19:43 ID:wsg/nGNp
>>124
中原親能の妻と古庄能成の妻は姉妹。
子の能直の代まで待つことなく、能の字でもつながっている。
実際に、能直は親能の多数のの所領を相続してもいる。(猶子の関係
を超えている)
能直が中原親能の子との説があるほど。

「婚族的親戚にすぎず」とは言い切れない関係があると考えるのが
自然だと思うよ。


127 :こだわってすまん:2006/08/17(木) 18:26:01 ID:wsg/nGNp
>>125
家格の面でも武藤氏(少弐氏)は古庄家の猶子になっているのは、
古庄家の家格の相対的高さを担保するものと考えられる。

>>123
そもそも妾説は、能直が頼朝の落胤とするために後世に創られたもの
で、落胤を否定するなら、妾関係も成立しないのが論理的でしょう。

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 19:36:48 ID:2DWkhoAr
なぜ烏帽子親だと考えないのだろう・・・

129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 00:00:35 ID:D+McvJgN
そんな憶測で言うのなら・・・
中原能直も古庄能直の単に烏帽子親となぜ考えないのだろう・・


130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 01:29:08 ID:5DHkaL+F
647 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2006/07/28(金) 01:06:43 ID:OGoZwm9L
アリの巣コロリってあるじゃん。
蟻の行列にポンと置くと、一瞬ビックリして列が乱れる。
邪魔だなと言わんばかりに迂回する列が出来る。
そのうち好奇心旺盛な一匹がアリの巣コロリに入る。
そいつをマネして何匹も入る。
毒とも知らずにツブツブを運び出す。一匹が一粒づつ。
いつのまにか行列はアリの巣コロリが折り返し地点になる。
黄色い粒と黒い蟻が作り出す模様は綺麗で見てて楽しい。
一匹が一粒づつ、丁寧にせっせと毒の粒を運ぶ。
せっせと、せっせと、せっせと、せっせと。
蟻さんって働き者だなと思う。俺も頑張らなきゃなと思う。
次の日、あれほど沢山いて俺を困らせた蟻が一匹もいない。
ほんとにいない。探してもいない。泣きたくなった。                   


このレスを見た人は4日後にあなたの大切な人がいなくなるでしょう・・・・
それが嫌ならこのレスを5つの板にコピペしてください。 
信じるか信じないかはあなた次第です。

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 23:15:23 ID:eRL+udP+
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。

※謙信自身が敗北を認めている書状↓
 晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
 かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日                  虎(花王)
[三洲寺社古文書]


【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。

1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。

上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。

謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである

本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 14:12:51 ID:kjuyS6JO
宗麟のキリスト教は、貿易が目的でそれ程熱心ではなかった。

という俺の認識は間違い?

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 15:43:28 ID:jEQJyaxI
宗麟がザビエルとあったのは天文二十年(1551)

年齢的に天文四年(1535)建立の、京都の瑞峯院の開基はできなくても(六歳だ)
出家したのが永禄五年(1563)
永禄六年(1563)頃には臼杵に寿林寺を建立(元亀二年(1571)かも)

一連の行動は、禅宗に帰依していたことを意味するわけで、
仮にキリスト教に魅力を感じていたとしても、この時期は両方なわけで

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 06:53:52 ID:BdYUTRK7
少弐氏は古庄氏の猶子なのか。
名門だな。

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 10:07:55 ID:3+r9IA6p
>134
???

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 18:51:35 ID:qK4S/8ZS
明日は誰が草伏す屍照らすらん石垣原の今日の月影

と歌って散っていった吉弘統幸の命日が近いな(旧暦だけど)

137 :名無しさん:2006/09/08(金) 19:04:44 ID:AJI5Q4ML
大友康平は、大友宗麟から数えて何代目になるの?

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/08(金) 19:31:47 ID:XzL5DriN
そういえば幕末の蘭学者の緒方洪庵は佐伯惟教の子孫らしいな。

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 14:15:13 ID:B99NTWpw
>>137
無関係。

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 20:15:19 ID:L/FTTZCK
佐伯家の本姓は大神氏、日向国の大神惟基にはじまり、豊後国に住んだ
緒方三郎惟栄を中興祖、惟栄四世惟康が大友氏に仕えて豊後佐伯に住んだ
ことから佐伯を名乗りました。
代々大友氏の臣でしたが、文禄元年に大友氏が改易されたので、当主惟定は
藤堂高虎に仕え、その末弟の惟寛は備中国足守に移住帰農しました。
惟寛の孫である惟隆は寛永年中木下候に仕え、足守藩士になり、その子孫で
ある佐伯惟因は一女三男をもうけ、娘は吉備津祠官堀家徳政に嫁ぎ、長男は
幼くして死亡、二男惟正が家を嗣ぎました。末男章は緒方洪庵と号します。
尚、惟正の長男惟成は大神太郎と称して大坂に住んだそうです。

http://www.kct.ne.jp/~kshimizu/saek.htm

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 01:10:50 ID:Yw5JK3zW
いんや、佐伯氏が緒方惟栄の子孫というのは詐称らしい。
実際には惟栄の叔父の子孫とのこと。
惟教の庶子・惟照(伊予白木城主)の子孫に「護法の神」と称えられた
児島惟謙がいる。

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 01:30:34 ID:siXythGR
佐伯氏とかの大神一族が名前に惟の字をつけるのを慣習とするのは
「惟神(カンナガラ):神のあるがまま」という意味を籠めてるんだろうか?

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/12(火) 12:23:22 ID:oIF+M+97
名門大友一族に幸あれ!

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/13(水) 03:50:01 ID:C7yURKww
豊後三老とその一族は
武略の吉弘家
政略の臼杵家
知略の吉岡家
ってイメージになるな。

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 07:32:38 ID:C3xPjwqL
洗礼名はザビエルにちなんでドン・フランシスコだっけ

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 02:49:53 ID:DV3NmOwU
歴史資料に門司城合戦での和議の時(1564年)に毛利秀包と大友マセンシアが
婚約したってあるんだけど、両方ともまだ生まれてもいないよなw
他に大友から毛利に嫁いだ人っていたっけ?

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 19:46:53 ID:7cmtmpou
義統が城を落ち延びる際に側室の心配ばかりするので、救い出しに行ったはいいが
そのあと女の心配ばかりして戦っている家臣を省みないので、怒って出奔した側近いるよな。
あれは誰だっけ?

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 20:22:50 ID:HSKWFX9Q
>>147
確か臼杵形部っていう義統の側近だった人。その後毛利家に仕えたそうな。

しかし、義統の正室は戸次川で助けてくれてそのまま護衛についてくれてる
吉弘統幸の叔母なのになあ、なんとも大将たる重みの無い男よ。

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 21:28:58 ID:MIG4ozC+
宗麟の数代前とかも面白い。
島津・大友・竜造寺を第二次とした場合、
そちらは大内・大友・少弐の「第一次」九州三国志。
政親・義右のあたりが特にドロドロしていて興味深い

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/24(日) 21:13:01 ID:DIzTYKxQ
勢場ケ原の戦いで吉弘氏直が討ち死
耳川の戦いで吉弘鎮信が討ち死
岩屋城戦で高橋紹運が玉砕
石垣原の戦いで吉弘統幸が討ち死

氏直の父である吉弘親信も大内との抗争で討ち死したらしいし
凄い討ち死率だよなこの一族は


151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/25(月) 14:30:24 ID:zB/JO38l
それだけ大友家臣団の中では随一の忠臣
つか、それを良いことに激戦地に投入される確率が高いというか

石垣原の場合は自ら志願したのでちょっと事情が違うけど

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/25(月) 18:50:34 ID:gDj7i0H0
石垣原はなあ、わざわざ従兄弟の宗茂のとこを出て徳川家にいた大友義乗
のとこに行こうとしてたら、吉統に出会っちゃって再起を図ろうとしてたから、
正室の子の義乗が徳川家にいるから東軍につくように言ったら、側室とその
子供が毛利に人質に取られてるから西軍につくって言われてアチャーと思い
つつも仕方なく参加して、思いっきり死ぬ気(辞世の句が明らかに死ぬ気)で
戦ってたからなあ。

いや、吉統なんかほっといて義乗のとこに行っとけよって感じなんだが
こういう生き方しか出来なかったんだろうなあ。。

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/25(月) 22:59:58 ID:zB/JO38l
>側室とその子供が毛利に人質に取られてるから
少納言の局はこの時には後水尾天皇の乳母で京都勤務じゃなかったの?

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 09:58:37 ID:+LrMf1Cs
>>148
ライブドアの宮内がホリエモンが女の心配ばかりして、社員を省みないんで庇う気をなくしたって話を思い出した。
いつの時代でもこういう大将はだめだな。

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 21:46:16 ID:GQ/vkAAF
山名豊国みたいなやつだね

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/02(月) 20:17:04 ID:0wdDFjJ8
あと吉統の情けないところは、府内から逃げた先の豊前の龍王城で
黒田如水に勧められてキリシタンの洗礼を受けるんだけど、秀吉の
キリシタン追放令で1年もせずにあっさり棄教し家臣たちにも棄教を
命ずるも、志賀親次らの反発を受けて、一計を講じて神道での誓詞
に大友家への忠誠を誓わせることで棄教の証としようとしたら拒否さ
れて逆にキリスト教の方式で忠誠を誓うことを許してしまうは、そのこ
とで秀吉に親次の非難をしたらかえって自分が叱責を受けたという。
そりゃもうなんらかの理由があれば改易させられるわなあ。


157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 23:51:54 ID:pYuNdl3S
田原親虎、臼杵統景、吉弘統幸、志賀親次、立花統虎、
戸次統常、佐伯惟定、吉岡統増、田北統員、高橋統増
この連中が揃って育ってれば結構凄そうな軍団になり
そうだったんだけどなあ。



158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 23:57:55 ID:LCMITFAh
今川氏真以下だな

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/10(火) 09:33:31 ID:VrrkksEu
志賀親次のせいで改易されたんでしょ?

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/10(火) 11:52:27 ID:LkQx9wWp
>>157
宗麟さえ狂って無ければ、九州くらいなら統御できたろうにな……惜しいわ……。

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/13(金) 08:32:25 ID:pSRhzDVw
宗麟はやればできる子というイメージだな。

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/14(土) 23:33:02 ID:ZWh7xe7j
志賀親次の母親って奈多夫人の連れ子だっけ?
よくキリスト教の入信許されたな。
田原親虎みたいに妨害されなかったのかな?

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/19(木) 02:37:44 ID:xi8GhqCL
吉統の正妻の菊子さんは、大阪で人質になってたところを
大友家の改易で放逐されて、供もなく子供達と豊後を彷徨い
歩き、それを聞いた甥っ子の立花宗茂に保護されるんだけど
結局すぐに亡くなってしまったんだよなあ。

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 22:49:12 ID:jTLdM9fx
すみません、質問なんですが、
「大友興亡記」「大友記」なんてのは、活字になっていますか?
そのほか、大友家や江戸期の筑後の立花家など、
大友サイドの、当時の目線での歴史書のようなものがあれば、
教えていただけませんでしょうか。

すでに今山の合戦にふれている人もありますが、
佐賀に関する他地域の記録に興味がありまして。

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 12:29:58 ID:YNLjiQLY
>164
大分県郷土史料集成ってのに入ってるよ
古い本なんでその辺の図書館には無いと思う。

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 12:54:58 ID:e6HuGZ8C
軍勢にわざわざ寺社を打ち壊して教会立てさせてるから、宗麟のキリシタン狂いは真性だった気がする
もっともその割に個人的な戒律は全然守ってないがw

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 16:47:19 ID:wG3URAFD
>>157
西の武田家って感じだな。

168 :無名ノ介:2006/10/28(土) 23:52:27 ID:gaHlq1hD
>>157
ゲームでも、政治「も」できる武将が多い。中国以西では稀w
かなりバランスの取れた武将団というイメージがある
(重臣だけだろうけど)

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 10:40:23 ID:kz2CdkmF
特に臼杵家の連中は全員政治向きな感じだね。
臼杵鑑続・外交事務を管掌、大友晴英を大内義隆の養子にする。
臼杵鑑速・豊後3老、対外貿易の管掌者
臼杵紹柵・筑前志摩郡の統治、博多に房州掘りを築く

臼杵統景も文武に優れていたらしく、鑑速の死後14歳くらいから
政務に携わってたようだが、18歳で紹柵と一緒に戦死したのが惜しい。


170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 21:47:35 ID:4nXmcWFR
佐伯家
佐伯惟治の乱の後一旦筑後へ移住するが後に許され豊後に帰る。
小原鑑元の乱の後伊予に避難するが、13年後に豊後に帰る。
大友家改易後、すぐに藤堂高虎に仕え明治まで残り、
足守に移住した別家では緒方洪庵を輩出する。

しぶとい一族だよなあ、流石蛇神の末裔w


171 :164:2006/11/01(水) 21:32:14 ID:RTbOn5oT
>>165
どうもありがとうございます

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 17:07:38 ID:le3oUa52
地元だけど最近まで大友宗麟以外知らなかった

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 19:31:54 ID:VNWX1WSH
数年前、佐伯氏の居城だった栂牟礼城に登った。
一人で行くつもりだったのだが、何故か両親が付いて来た。
親父は途中、足を踏み外し沢に転落して行った(T_T)

やっぱ、中世山城を舐めたらいかん

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 02:11:35 ID:QQaXpgDV
臼杵長景が2万の軍勢で攻めて千余の佐伯惟治軍を落とせず、
騙まし討ちでやっと攻略した城だからねえ。

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/07(火) 00:49:32 ID:jeN59Yec
日本の100人の次号、宗麟だってよ。べっくらこいた…

176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/07(火) 02:34:52 ID:5hc1Qy/V
マジっすか
戦国大名は優遇されてるんだな

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 19:36:40 ID:0q8TDEF+
松永久秀から骨喰吉光を取り返したのって誰だっけ?

178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/14(火) 20:11:03 ID:TzYBE+v3
日本の100人が宗麟なんで買ってみた
府蘭獅子に吹いた。
不龍獅子虎で更に吹いた。

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 21:28:33 ID:TnxwjkOa
100人、評伝アラカルトおもろかった

180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/21(火) 21:18:13 ID:r5Vn8Gdj
大内晴英(義長)はこのスレの範疇?

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 19:18:45 ID:G5dLRTRd
100人のなかで、松永久秀と刀の話は初耳だったので面白かった。

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 09:25:30 ID:AhrZGroE
豊後の石高っていくらだっけ?

183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 22:27:54 ID:ahCLhbR2
天正19年8月吉日付けの「 豊後国御検目録 」だと
大友吉統は23万6,020石余で秀吉に報告してるらしい。
しかし江戸時代だと
杵築藩 32,000石、日出藩 25,000石
森藩   12,000石、府内藩 21,000石
臼杵藩 50,000石、佐伯藩 20,000石
岡藩   70,000石、天領が 69,000石
で合計30万石位みたいなんだが、
これでもまだ少ない感じなんだよなあ。
なんかで豊後42万石ってのを聞いた気もするんだけど。

184 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/05(火) 02:13:12 ID:+4FHwpDz
/

185 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/07(木) 22:18:23 ID:nmwvdx7b
室町初期の訳のわからん家督相続の仕方に萌

186 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 18:57:16 ID:meHv+LcW
どんな相続の仕方?

187 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 22:05:04 ID:RhHqH0Vq
長男貞順→弟に家督を奪われ謀反
次男貞載→立花家祖
三男宗匡→立花家二代
四男即宗→出家
五男氏泰→大友家七代

188 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/09(土) 19:54:33 ID:W6iA8tqL
>>187
その次は7男の氏時が継いでるんだなw

189 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/09(土) 23:19:42 ID:taBSJgTa
>>187-188
d楠
確かに変な相続だ

こういうもめ事は大概母親の身分がどーとかというのが原因であることが多いが


190 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/10(日) 00:08:32 ID:dqmebbAg
実際南北朝時代の大友家は混沌としてるなあ。
氏時の時代に筑後川の戦いで南朝側に負けて
南朝の勢力が強くなると、9代目氏継と、10代目
親世の兄弟が南北に割れて争うことになったりし
てるし。

191 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/10(日) 00:43:15 ID:WGlo7Pxb
兄弟相続て・・・なんか殷王朝を思い出す。

192 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/12/12(火) 00:18:23 ID:hOPcJ25q
守護家の嫡庶と序列が完全崩壊した象徴が応仁の乱なんだそうで。

193 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/20(水) 13:32:52 ID:IfMhS9RX
こんなこともあったんだね

ttp://www.e-obs.com/heo/heodata/n465.htm

194 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/28(木) 13:19:32 ID:az/2SDVp
角隈石宗って軍師っていうより妖術師なんだな

195 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/28(木) 15:06:42 ID:b8bgFkfG
つか当時は軍師様=祈祷師だからな

196 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/28(木) 15:55:38 ID:SxoTVM39
>角隈石宗

死を覚悟して耳川の戦いに行ったというのは、後世の作り話の気がする。
占い以前に島津が有利ということが分かっていたのなら別だが。

197 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/12/28(木) 21:58:51 ID:dTAKoqTT
川田義朗と直接対峙してほしかったものだ。

198 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/29(金) 12:01:28 ID:nPf/7JKz
>>196
島津が有利って言うか、大友の方が戦う前からガタガタだったからなあ。


199 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/02(火) 07:04:30 ID:kZ+8TJV3
大友宗麟の和歌
「富士うつる田子の浦わの里人は雪の中にも早苗とるなり」

後奈良天皇が「雪中早苗」という題を出され、それに奉答した和歌らしいが
宗麟は田子の浦まで行ったことがあるんだろうか?


200 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/02(火) 13:42:56 ID:CaWSJvit
>>199
もちろん宗麟は田子の浦に行ったこともないし
後奈良天皇存命中に直接会ったこともなかったのでわ

201 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/07(日) 13:19:39 ID:oPj+FTLJ
日向の伊東氏とは縁戚だよね。

202 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 22:36:28 ID:8weK0yRw
遠縁じゃなかったかな
大友氏の娘が土佐一条氏に嫁いで生んだ娘が伊東氏の嫁

伊東氏が直接婚姻関係を結んでいるのは
阿蘇氏とか意外に島津氏(但し先代の本宗家)とか

大友氏の婚姻関係で意外なのは
宗麟の母親が未だに誰かはっきりしないと言うところ

203 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/01/08(月) 22:50:22 ID:KKJlkJJA
卑しい親を持つなら継承じたいが無理なお土地柄だしね。

204 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/09(火) 02:12:20 ID:gg7MkNOj
大友家って高家になったらしいけど子孫今でもいるのかな

205 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 14:06:54 ID:bgQvbkJz
>>202
・大内義興の娘説。
・公家坊城某の娘(伏見宮の娘)
これは、大内氏の文書の記述から。
なんでも最初に嫁いできた大内義興の娘の身持ちが悪くて、重臣たちが激怒して
夫人を山口に送り返そうという話になった。
そのことに気づいた侍女が山口に報告し、大内家から選りすぐりの美女二人が、送られてきた。
そのうちの一人にたちまち手がついて・・・というのが、いきさつらしい。

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