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【六朝】魏晋南北朝【五胡十六国】

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 16:51:45 ID:2y8jgwmy0
楊大眼とか

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 23:05:26 ID:uUg77X+p0
初2GET チン軽視 南梁だっけ?

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 23:06:13 ID:EA2GaG9NO
元凶劉劭だろ

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 23:09:23 ID:DC7KYpmR0
この時代の君主はドキュソだらけだね。

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 23:17:29 ID:8s3jzaOwO
符堅から「我が孔明よ」と称された王猛についてでも語りましょうか

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 00:52:41 ID:lpiKgEbc0
じゃあ孫の王鎮悪でも語るか

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 01:08:14 ID:7+WmGzwkO
王鎮悪って劉裕に粛清されたの?

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 02:38:41 ID:x+cYMTmh0
石勒萌エス

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 08:07:42 ID:S8xzPmO6O
劉娥のエピソードが好き

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 08:51:35 ID:D86RmBWy0
簒奪だらけ

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 09:16:15 ID:ldm+WpPM0
酒乱皇帝

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 10:03:26 ID:MlMU1vxQ0
宇宙大将軍

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 00:29:37 ID:TPoYUCry0
この時代のドキュソ順位をつけるのはどう

1位石虎
2位赫連勃勃

3位がむずいな・・・
冉閔
苻生
侯景
とか

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 00:37:17 ID:2mLn6hUTO
元凶とかもかなりドキュソ

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 00:48:20 ID:9d5zg0uzO
DQNが多過ぎて迷ってしまうなw
個人的には石虎とかかなぁ

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 00:59:38 ID:C4QxV7qz0
>>13
その辺りは個別スレ立てても伸びそうだな

17 :無名武将@お腹せっぷく:2006/10/26(木) 07:03:38 ID:OwyiWh580
国を誤らせたDQNなら、俺は断然王衍を推す。
こいつの人生は、孔融とかデイコウに権力を持たせたらどうなるか、
という仮定に対する回答みたいなもんじゃないか?
しかし晋書の王衍伝、最後は石勒が王衍の威厳(笑)にビビッたかの
如く書いてるけど、絶対にありえんと思う…。

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 12:04:05 ID:9d5zg0uzO
王衍はDQNとはちょっと違うような
正直生まれた時代が悪かった

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 16:37:33 ID:V3dQq19u0
乱世に老荘思想は不適格だと証明してくれただけでも功績と言っていいのでは?>王衍

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 20:28:14 ID:9zkI2xpN0
DQNなら、南斉の明帝はどうだろう。
いくら高帝・武帝系皇族の再簒奪を恐れたとはいえ、一族28名を
殺し尽くすのは…。
しかも殺害前に香を焚いて、殺害後に哭泣する態度、自分のような
凡人には、ちと理解できかねる。

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 21:03:03 ID:2mLn6hUTO
あいつも大変だったんだよ

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 03:04:11 ID:GOhR1eMxO
劉宋の文帝は、前の皇帝である兄を廃して自分を皇帝に擁立してくれた
傅亮や徐羨之等を即位後に前帝を弑殺した謀反人として処刑している
名君とは言われているがなんかやる事が汚い

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 20:31:02 ID:U5/Kmpxz0
>>22
と言っても、傅亮・徐羨之は打算抜きで擁立してくれたわけじゃないぞ。
長男の少帝と次男の劉義真(後秦滅亡後、長安留守になったあの人物)を
同時に殺した上で、三男の文帝を迎え入れている。
帝位につけた理由は、十中八九「劉義隆は病弱で操りやすい」という点と
思われるが。正直、「喰わなければ喰われる」危機感を常に抱いていたんじゃ
ないか?

皇親にしても、武名の高かった劉道規は東晋時代に死去していて、劉裕の
弟たちには側近に睨みをきかせられる人材がいなかったし。文帝の弟たちも
まだ未成年ばかりで、頼れない状況だったことも考慮に入れるべきでは。

ちなみに、檀道済が殺された元嘉13年は、文帝の病が重篤になったため、
正月の宴が取りやめになっていたりする。檀道済を謝晦たちから遅れて
処刑したのは、個人的にはこれがきっかけだと思う。
兄二人を殺した過去を持つ、武力を持った将軍の存在に加えて、いつ死ぬかも
わからない不安が、今のうちに粛清してしまえ、という行為に走らせたのでは
ないかと。
勿論、文帝が荊州刺史時代から抱えたブレーンたち(王曇華ら)の意向・謀略も
考える必要はあるだろうけど。
個人的には、文帝を悪人と断罪するのは待った方がいい気がする。

少なくとも、田中●樹の説には賛同しがたい。「悲劇の名将」というものを
あまりに強調しすぎ。

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 20:36:47 ID:NbqxvkQw0
まぁ、説というか。
あれは物語ですから…

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 23:27:14 ID:RUo4VJ6YO
諒闇中に生まれたので誕生を隠された元凶劉劭
それがグレた原因か

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 14:31:50 ID:iPA4/w9T0
このスレカバーする範囲が広すぎゃしないかな
五胡十六国スレ立てようと思って検索したらここが出てきたんだけど

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 15:10:31 ID:Pki4I+tpO
細分化しすぎて過疎化するよりかはいいんじゃない?
あんまりこの時代に詳しい人多いとも思えないし。

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 15:23:21 ID:iPA4/w9T0
そうかじゃとりあえず行こうか
ちなみに当方は晋も南北朝も知識ゼロだが

五胡では慕容氏の燕は好き、特に慕容垂
この人前燕の王族、亡命→前秦の将軍として活躍、自立後燕の皇帝に
→死の直前北魏の都平城を陥とす

波乱万丈、かつ比較的平穏な終末

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 20:52:37 ID:DnZX95si0
慕容垂は( ・∀・)イイ!!

苻堅が落魄れた後も義理を果たすし


30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 09:22:53 ID:TK0bk0yB0
昔慕容評に追われたとき、符堅は自分を受け入れた
王猛が殺すようにとすすめたときも聞かず、国士として優遇してくれた

と符堅に兵を預け、自分は関東に去っちゃうんだよね

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 09:24:51 ID:TK0bk0yB0
念のため訂正 符→

>>29の苻堅が正解です

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/06(月) 14:30:41 ID:V8MlL4X+0
符堅の異民族優遇が最後に少し実ったな

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/07(火) 11:29:42 ID:UIGVVcQy0
宇宙大将軍>>>>>>>>>>劉邦>>>劉秀≧石勒>慕容垂>曹操

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/07(火) 20:57:46 ID:h5bW/J+GO
宇宙大将軍てかなり名前負けしてないか?

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/07(火) 21:40:25 ID:HO93/cRe0
だがそれがいい

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 18:51:16 ID:nvCMyqh/0
この時代は、おれの脳内ではリアル北斗の拳のイメージ
モヒカンの異民族がひゃーほー言いながら襲ってくる

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 18:57:58 ID:xqfmvLdI0
ああ… つまり正義は漢民族にあり、と?

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 21:34:09 ID:2oZUK+PUO
むしろこの時代は異民族の方が名君は多いけどね。
逆に漢族の中にもとんでもないDQNが結構いるし。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 21:46:53 ID:lAfGE0Lr0
冉閔「それはもしかして俺のことを言っているのか?」
赫連勃勃「お前ほどひどいやつはそんなにいねーぞ」

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 23:08:12 ID:BcUz2vZIO
劉劭「とんでもないDQNて誰のことだ?」
海昏侯「さあねえ」

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 23:12:04 ID:f2vbax0V0
石虎「やっぱりさ、みんな仏教に帰依しないからDQNになるんだよな」

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 23:57:24 ID:xTmDXjEy0
蕭衍「禿同」

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 00:02:58 ID:+vCx6OGNO
侯景「みんなスケールが小せえなあ」

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 00:32:20 ID:fmZBJKKP0
google earthで離石みたら、かなり狭いように見えるんだが、ここら辺で匈奴は遊牧してたの?
平陽って、本にある地図とかで見ると、太原と川でつながってて簡単に往来できるのかと思ったら、
けっこう難しいのか?
そんなこと思いながらwikipedia見てたら、劉淵が酷いことになってるorz

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 01:19:02 ID:PTbZbVdu0
高緯「斛律光も蘭陵王も粛清したし、これで俺様の帝位も安泰だなwww」

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 01:39:45 ID:/VVdyG/e0
北周が好き…

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 05:39:06 ID:aI9yu7ny0
>>45
宇文ヨウ「正直すまんかった」

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/10(金) 18:45:14 ID:Qhlb+7Xr0
>>34

あれだけ好き勝手に暴れ回ったんだから名前負けはしてないでしょ。

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/10(金) 19:02:57 ID:kSs4jVBi0
>>48
じゃあ、暴れん坊将軍の方がよくね?

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 23:24:53 ID:LjfZyg790


東晋十六国と南北朝って、かなり雰囲気が違う気もするが

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/12(日) 23:32:20 ID:rRQd8kp10
西秦萌え

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/13(月) 20:19:50 ID:ruJodMrm0
柴栄萌え

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/13(月) 20:20:29 ID:ruJodMrm0
ごめん。誤爆した

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 11:56:49 ID:OvO7Yigo0
慕容[皇光]の子は傑物ぞろいだね
儁は問題も多いけど後趙を滅ぼしているし
恪と垂は言うまでもないし
徳も戦は滅法強かった

評と[皇光]の孫たちが問題なんだよね

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 12:39:50 ID:ATRpdHDG0
表がほしい。
国を並べたやつ
各国の即位と官職のやつ
主要人物の子孫のやつ

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 22:26:47 ID:9KGgNSph0
>>55 

51 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/09/12 09:05:38
>>26
こんな家系図は見たことあるよ。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03009.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03008.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03010.htm

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 11:24:53 ID:Ki586nPRO
魏晋南北朝と六朝は同じ意味と考えていいの?

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 11:41:24 ID:0DIPoqbK0
宇宙大将軍のの宇宙って現在の宇宙とは別の意味があったんでない?

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 12:23:26 ID:/m0nm0ym0
六朝は呉をはじめに、東晋、劉宋、斉、梁、陳の建業を首都にした南朝の総意で使われることが多い
宇宙大将軍の宇宙は仏教用語(まあ、我らもスペースの意味で使ってる宇宙も、そこから来たんだが)

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 12:27:05 ID:0DIPoqbK0
じゃあ意味は一緒か。
何考えてこんなの名乗ったんだ候景ってやつは。

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 12:54:30 ID:VkspE8bv0
>>60
>>59を誤読してないか?
この場合、宇は空間の広がり、宙は時間の広がりをそれぞれ意味する。
つまり全ての場所全ての時間を通じての大将軍であるぞという、ある意味時間には区切られる皇帝よりも凄まじい主張をしてるんだ。

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 12:57:08 ID:0DIPoqbK0
ゴメン勘違いしていた。

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 16:31:14 ID:/8noufaf0
コロコロ政権がかわってるけど国力そのものは三国や漢より
だいぶ落ちてるよね?
何か大事業やった政権ってあった?


64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 16:33:20 ID:/m0nm0ym0
つ 梁

国力が落ちたのは北だけ(幾つも分裂してるし)。軍事力という面では上がってる
南は蝶裕福。文化も絢爛豪華。商人が台頭と
一世紀は先をいってた

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 19:41:55 ID:z0L9jrjW0
>>63

文化的事業だと、北魏とかは石窟をいっぱい作ってる(江南でもたくさん寺院建ててたな)
あと、国力に関しては確かに政府そのものの統制力の低下は見受けられるが
民間(と言うか荘園経済)の方は古代と比べ物にならないくらい向上している
江南の方ではクリークの発達が著しい(水稲の生産力向上はもう目前)

洛陽伽藍記とか見ると、華北も結構文化に爛熟しつつあったと思うけどね
そういう仏教文化興隆の嚆矢が石虎……だったような

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 21:34:18 ID:fuUi1iovO
東晋以降やたらに名前の最後に「之」がつく人物が増えるけど
これはなんか理由があるのかな?

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 21:39:53 ID:OLa9RSJx0
>>66
あくまで一説だけど、この時代の人の名前に「之」がついてるのは
五斗米道の信者だといわれてる。

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 22:07:54 ID:fuUi1iovO
>>67
それが本当だとするとかなりの数の五斗米道信者がいたことになるね

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 22:37:36 ID:uT7wtS330
>>63
少なくとも三国よりは上じゃないの。
江南の開発も進んだし。

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 23:52:10 ID:IfP35ujK0
このころ本格的にインドへの海路が開かれてるよね

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/26(日) 22:28:46 ID:aYuH8mUGO
仏教が本格的に広まり出したのもこの時代
仏教かぶれの皇帝も多数出現

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/26(日) 23:00:10 ID:aa83NeyM0
買い戻された皇帝がいたね。

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 03:11:07 ID:li9JnygbO
梁の武帝だったっけ?

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 14:30:24 ID:6RsJnbGi0
仏教伝来は漢代だけど盛んになるのは仏図澄の来朝
来た310年は劉淵、劉和、劉聡と洛陽の主が替わってるけど
仏図澄を重用したのは石勒だね

75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 22:38:43 ID:QrKBCHViO
一兵卒から皇帝にまで上り詰めた劉宋の高祖武帝、劉裕、南斉の太祖高帝、蕭道成
両人とも共通点が多いな。国も同じ様な運命をたどったし・・・


76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 00:32:56 ID:vLrTMpuKO
子孫達がDQN揃いってとこも似てるな

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 04:20:57 ID:s2VU9+rVO
梁とかも武帝蕭衍は正面な皇帝なのだが(後に仏教狂いになるが)子孫達がDQN揃いで結局同じ結末になっちゃうし・・・

>>72は蕭衍だよね?

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 19:24:13 ID:S7/lFRUs0
>子孫たちがDQN揃い
せめて正史の帝紀とか皇族の列伝を読んでから語ってくれ。

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 20:49:21 ID:s2VU9+rVO
>>77
すみません、史書は読んで書き込みしてますが
>子孫たちがDQN揃いについては 南斉と勘違いしてました。

梁は明君が多いですよね?


80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 23:02:13 ID:Rc/klTjX0
劉邦>劉秀>劉裕>>>超えられる壁>>>劉淵>劉備

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 01:19:02 ID:GZ/7DQ7x0
>>78
親父が都で幽閉されてるのに、
その間ずーっと息子同士で縄張り争いだからなあ。
DQNの含有率が高いのは間違いないんじゃないかい?
まともそうなのは長男と三男くらい。
元帝もどうも名君とは呼びがたいし。


82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 11:25:34 ID:CBFmcldw0
五胡十六国の幕を開けた意味では劉淵は存在感があると思うが
西晋を滅ぼしたのは劉聡だが

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 18:04:19 ID:i+IIY8eG0
紅い毛が3本の劉曜も忘れないで!

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 22:28:17 ID:96GHBd/U0
>>80
約裸一貫からの建国者

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 22:30:17 ID:8vdoQdhr0
>>84
劉淵はよくは知らんのでなんとも言えないが、劉秀以外みなほぼ裸一貫じゃね?

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 02:55:48 ID:ddgWX/w/0
>>85
劉淵の出自は匈奴の単于。かなり恵まれている環境だな。

87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 07:36:52 ID:pY4Ltlll0
確かに劉淵は出自こそよかったが当時はその匈奴自体に往時の力はないよ
劉淵自体も魏によって五部に分割された匈奴の一部を率いてただけ
しかも晋に人質として送られ警戒されてた
その当時から武帝や王渾などに高く評価されていて
「劉淵を江東に派遣すれば呉を滅ぼすことは容易い」とまで言われていた
彼が大単于に推戴されたのは毛並みのよさもさることながら英主として部族から期待された為だろう


88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 13:35:04 ID:qmT2Dms50
あの頃の匈奴とか鮮卑ってどんな人種だったんだろうね。

89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 13:52:22 ID:NYIq79nX0
>>87
劉淵は子供の頃から、春秋左氏伝や孫子、史記などを諳んじた秀才
武芸にも相当秀でていたというから、只者ではない
南匈奴は相当漢化されてた証左だとも思う

王渾以外にも王済などにも呉の平定に推挙されたり、
匈奴である割には晋朝に重用されるものの、やっぱ匈奴の重用はまずいよの声で
帰郷して晋朝と対決するんですよね

成都王司馬穎へ義理立てしたりもしてる


90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 16:22:59 ID:pY4Ltlll0
でも劉淵自体は大単于・漢王となって以後、ほとんど親征してないよな
もっぱら戦争で活躍したのは劉聡・石勅・王弥といった将軍連だな

劉聡も中国的教養を修め武勇にも優れた人物だな
後年は酒色に溺れて国政乱したのが惜しまれる
陳瞬臣だと思うけどこの頃の非漢民族の君主にこういう失敗が多いのは
酒色のほかに楽しみを知らない文化レベルによるってのを読んで妙に納得したもんだ
漢化すると逆に文弱な傾向に陥りやすいしな

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 22:36:50 ID:DjPTCiTM0
時代が違うけど宋代の金王朝とかそうだよね。
言い方は悪いけど、元々は超野蛮人だったのに漢化して
いきなり文弱になるし

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 23:00:44 ID:8szXYtSDO
>>87>>89
劉淵の従祖父、劉宣もなかなかの人物だね。
儒者に帥事し「毛詩」「左伝」を学び、晋の武王のとき右部都尉、匈奴の右賢王に任じられ
八王の乱が起こると劉淵を成都王から離石の右国城に召し帰して大単于に奉じ
劉淵が漢王になると丞相、都督中外諸軍事にとして
開国の元勲と特にして尊重されているし。

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/01(金) 11:20:12 ID:yFErvW9y0
劉宣は劉淵が帝位についたのと同月の
永嘉二年(308年)十月に没してるんだね
この時までの劉淵の飛躍は、劉宣の知略に負うところが大きいと自分も思う

94 :名無しさん@お腹いっぱい :2006/12/01(金) 15:03:06 ID:meTXCuG+0
>>91
同じ女真族の清もそうでしたね。
康熙帝の頃は、ロシアとネルチンスク条約を結んだりと、割と国際的だったのに、
孫の乾隆帝の頃には、中華思想に汚染されて文弱になって、国際的視野が
狭まって、かのアヘン戦争の悲劇へとつながって行くのですから。


95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/01(金) 22:54:38 ID:stoH6xBQO
非漢民族が中原の国家に変貌するには漢族の力を借りるしかなかった。
漢化されれば民族の本質を失う、しかし中原国家として政権を維持するためには漢化せざるおえない。
まさにジレンマだな・・・
例えば北魏の太武帝は崔シ告に国記を編集させ石碑に刻みつけた。
それを読んだ鮮卑族拓跋部の人たち自分たちはこんなに野蛮ではないと怒ったし拓跋部の人たちも精神的に漢化していたんだね。

宣武帝は禍根を絶つために皇太子の生母を殺す北魏のしきたりを「忌まわしき風習である」として廃している。
北魏の王室は漢化きわめて進んでいたし、漢の文明に傾倒しただけでなく、王室の血統もほとんど漢化していたようだ。


96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/02(土) 06:40:04 ID:+vM3Nuvr0
生母殺しは外戚の力を削ぐ為?

97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/02(土) 10:33:40 ID:JH761cSLO
>>96
外戚の力を削ぐ為の先人の知恵だろうな。
鮮卑族は漢王朝が外戚に後漢王朝は外戚と宦官が政治に介入して衰退していったのは知っていたのかは不明たが。

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/02(土) 11:15:14 ID:B7+dd5f2O
オスマン朝で兄弟殺してたようなものか

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/02(土) 14:47:49 ID:JH761cSLO
生母殺しのしきたりは塞外民族に限ったことではなく
漢の武帝も皇太子を立てるとき、その生母鉤弋夫人を殺している。


100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/02(土) 18:00:17 ID:VhiZz1lJ0
でも武帝、めっちゃ後悔してたような

101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 00:18:53 ID:j5wSdJ/3O
太皇太后の竇氏が漢の武帝が即位当初、実権を握っていたのを教訓にしたんだろ?
また魏は親族を疑いすぎ、晋は親族を重要視しすぎた。しかも両方とも裏目な結果に・・・
宋や斉の場合も代が進むと肉親同士骨肉の権力争いになるし
それに対し石勒は漢人士大夫を優遇し律令、官制を整えて一時的ながら華北に安定をもたらした。
しかし石勒の死後以降の後趙は・・・


102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 03:11:49 ID:YMMrq7tC0
>>101
石勒は奴隷から後趙の王まで成り上がったスーパー逆境人間


103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 05:06:28 ID:mzCE+CgC0
魏も遠縁の親族は結構重用されてるけどなぁ。
曹休とか曹真とか夏侯尚とか。
次の世代の曹爽がアレだったから、司馬懿にやられちゃったが。

104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 06:18:02 ID:qU+MdgyJ0
>>103
まあ、皇族っても皇位継承権のない奴らオンリーだけどな
にしてもなんで任城王曹彰には一万戸なんて大封与えたのだろうか

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 11:48:56 ID:U8A2p6Bk0
まあ、袁紹・劉表と家督争いでライバル勢力が滅んでいったから
他山の石としたんでないかい


106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 11:59:49 ID:j5wSdJ/3O
>>102
洛陽で品物を売っている石勒を見た王衍は
「あそこの胡人の子供は只者ではないやがて大成するだろう、放って置けば天下の災いとなる」と捕縛させようとしたがその時すでに姿はなかった。そんな逸話が残っているし、
自らは字が読めなかったが学官に古典や史書を読ませそれをじっくり吟味したり漢族学者と史上の人物を論評したりしてるしな。
また僧の仏図澄を崇拝し教えを聞いたり所謂、耳学問だな。
五代の後梁の太祖朱全忠も人の話を聞くのが好きで古今の歴史に通じていた。
この二人は結構共通点があるし。
石虎は仏教に寛容だっがかなりDQNだしw

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 13:22:29 ID:Bx1/rlYW0
劉淵⇒石勒は、信長⇒秀吉に似ている

108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 14:07:22 ID:j5wSdJ/3O
劉宣は差し詰め秀長てところか?

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 19:22:10 ID:jZ7Fj9wq0
>>107
確かに、劉曜なんか柴田勝家まんまだと思う
張賓が竹中半兵衛で、徐光が黒田官兵衛あたりか
凄まじい調略の仕掛け方も、秀吉っぽいぞ>>石勒

殺戮に殺戮を重ねて新たな時代を築こうとしているようにしか見えない暴れっぷりに惚れる

110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 20:15:53 ID:K3j/CdUKO
>>104
皇位継承に関わる皇族を冷遇・監視するのは漢からの伝統

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 23:30:32 ID:j5wSdJ/3O
>>110
それプラス曹丕が曹植たちと兄弟で後継者争いのとき側近による権力闘争があったのが更に皇族を冷遇するのに拍車をかけたのだろうな。
それによりが司馬一族による政権掌握へと繋がっていくことになる。

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/04(月) 05:58:19 ID:8slVRdeh0
>>110
いや、だからそれらを踏まえてなんで曹彰のだけやたら大封与えられてるんだって質問なんだけど

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/04(月) 08:26:13 ID:veQZNMPCO
>>112
1万戸はまだ魏に禅譲される前の侯の時の話だよな
だからそもそも別の話だ

王になってからの方が封邑が減ってるくさい

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/04(月) 11:26:37 ID:8slVRdeh0
>>113
あ、マジで?
親切にありがとう

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/04(月) 17:20:57 ID:v+RcVLt/O
>>112
曹彰は後継者争いには早々と不参加で軍部に人望があり、持って生まれた明るい雰囲気で兄弟間の潤滑剤になっていたみたいだよ。
だから優れた弟たちに後継者の地位を脅かされ心休まる日がない曹丕も曹彰と司馬懿にだけは心を許していたんだって
しかし曹操の死後、曹植と仲がよかったため疎まれたと言われているようだよ。

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/05(火) 04:27:55 ID:pulKAC62O
>>83
劉淵は彼を「劉家の千里駒」と評し、劉聡は「劉邦や曹操に匹敵する」と評した。
長身の偉丈夫で性格は大らかで爽やか、読書好きで文才があり
書道が得意で草書、隷書が上手くあらゆる楽器をこなす風流心もあれば
武芸にも秀で厚さ一寸の鉄板をも貫通する強弓を使いこなし神射と呼ばれた。
318年皇帝に即位し国号を趙に改めて長安に都に置いた。
328年後趙の石勒に攻められた時も泥酔して戦場に立ち氷上に落馬して動けなくなったところを捕虜にされた。
劉煕に降伏勧告書を書くよう命じられた時、彼は「わしのことはかまわず、社稷を維持することにつとめよ」と言い放った。
晩年のマイナス要素はあるが最後の言動は高く評価するに値するだろう。


同じ劉姓でも宋の劉裕のこと熱く語ってくれる人いないですか?

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/05(火) 09:12:48 ID:BLQKLJDX0
劉淵、劉聡、劉曜とこの家は秀才揃いだね

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/05(火) 09:35:12 ID:1cUsr32r0
桓玄の楚は正規の王朝とは認められてないの?

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/05(火) 23:03:19 ID:krCzE6ow0
劉曜は軍事的才能だけで評価すれば、東晋十六国通じて10本の指に入る戦巧者だろうね。
洛陽、長安を攻略して河南方面での漢の勢力拡張に貢献しているし、
石勒陣営の320年代2石虎、3石生を立て続けに撃破、その上冉閔の父親石瞻を討ち取るという
凄まじい寄せを洛陽争奪戦(328年)で見せている。
最終的には石勒との直接対決で敗れてしまうが、従容とした死に様はある種の美しさすら感じさせる。

しかし、娘は12歳で石虎に攫われたっつーのが……orz

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/06(水) 06:35:47 ID:BGuhgo3hO
南朝は三国の呉、東晋、宋、斉、梁、陳
北朝は北魏、南魏、西魏、北斉、北周となってるし
桓温の建てた楚王朝は三ヶ月余りで終っているから
楚を正規の王朝とは認めてないんじゃない?


121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/06(水) 12:07:42 ID:EW81cNXQ0
正統の王朝と認められるには、『楚書』を書かないとな。そして正史に列せられなくては。

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/06(水) 17:28:27 ID:l2Y3YhW+0
史記や五代史記みたいに、「世家」としてならあってもよさそうだが。
でもま、三ヶ月じゃあなぁ

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/07(木) 02:13:59 ID:r1unI2VKO
桓玄、桓温親子二代の帝位簒奪に対する執念おそるべし
ちなみに『竹馬の友』とか『断腸』とかの言葉も桓玄と関係深いし。
それと『臭を万年に遺す』も有名だし。

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/07(木) 06:24:44 ID:FEMw5NZl0
>>123
臭を万年に遺すは桓玄らしい台詞だよな
まさに野心家の面目躍如w

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/07(木) 12:00:26 ID:KeJF1hq/0
>>119
酔って戦い石勒に敗れるあたりがまたいい

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/07(木) 21:48:10 ID:r1unI2VKO
>>124
この台詞は野心を燃やして、夜、寝付かれぬまま呟いたんだと言われているんだって。
自分が見出だした謝安にその野心を阻止されたんだから皮肉なものだ。
同じような立場でも王導と王述の場合とは全く正反対だな。

127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 09:59:35 ID:xEhenA/TO
>>123
桓玄、桓温親子の野望の強さのお陰で宋の劉裕は皇帝になれたようなものだろ?
宋王朝を建てる際、桓温の楚が80日余りでこけたのを劉裕は反面教師にしたりしてるし
ホント歴史っておもしろいな!!

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 22:42:40 ID:jAIpQJnD0
劉裕の前に符堅について語るべきだと思うが

129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 00:15:55 ID:lj5Dgg0+O
>>128
ご指摘はありがとう、確かにそうかも・・・


チベット系テイ族の首長苻洪は後燕の石虎の下に雌伏していたが
息子の苻堅が後趙の滅亡に乗じて長安に拠って自立したのが前秦。
苻健の死後その子の苻生が天王となってたがかなりDQNだったので
従兄弟の苻堅がこれを倒して357年天王の位についた。
しかし、民族的寛容になりすぎ、しかも先を急ぎすぎたことにより苻堅の天下統一の理想は脆くも崩れ去ったんだよな。

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 00:49:34 ID:lj5Dgg0+O
>>129の訂正
息子の苻堅 ×
息子の苻健 〇

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 06:30:36 ID:lj5Dgg0+O
苻堅は暴君の苻生を倒したとき
異母兄の苻法が天王の座にに就くのを辞退したため即位したんだよな。
でも苻法は素質が苻堅以上で人望もあったから生母の荀氏に殺されてしまう。
尊敬する兄の非業な死に号泣して血の涙を流したというエピソードが。

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 10:52:42 ID:hWwcx1Tr0
苻堅といえば王猛
そして二人と慕容垂の係わりが面白い

>>131
慟哭して吐血では

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 17:06:49 ID:lj5Dgg0+O
>>132禿同
苻堅は王猛を劉備が孔明を得たのと同じように大切な存在と引き合いにだしてだしてるし、
苻堅がシ肥水で惨敗した時慕容宝が苻堅を殺して自立しようとすすめた際
慕容垂は苻堅には大恩があるからそんなことは出来ない自立、王朝復興は関東ですればいい、苻堅は関西へ帰してやろうと言ったんだよな。
この時代には珍しく仁義あるエピソードですな。

>>131
>慟哭して吐血では
昔、自分の見た書籍には(名前は忘れてしまったが)そう書いていたような記憶が・・・
それにこの手の話は誇張されるのは致し方ないのでは?


134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 19:30:06 ID:cdbcxlf40
「六朝魏晋」ってことは三國志も含まれるんだな、といらぬ揚げ足を取ってみる。

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 22:30:12 ID:JVPcq1TR0
三国志・・・・・確かにそうだ

他でやっとくれ


136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/10(日) 00:11:00 ID:5S9FiXtbO
そんな事より苻堅の話題に戻すよ。

苻堅を初めて知ったのが孫子の注釈本。
その中の客、水を絶り来たらんとせば〜半ばシ斉らしめてこれを撃つが利なり。の解説で引用されてたのが
シ肥水の戦いで謝玄が「少し後退してわが軍を渡河させていただけまいか。そのうえで堂々の勝負をしたい。」申し入れたのを承諾。
苻堅は東晋軍が河を渡りかけたところを叩くつもりでいたが秦軍が後退する際、
朱序が「秦軍は負けたぞ」と嘘を叫んで回った為に秦軍は浮き足だってしまい逆に東晋軍に追撃される羽目に
それを読んだ時は87万も率いて8万の東晋軍になにやってんだってこいつというのが苻堅に対する俺の第一印象だった。
その後どんな人物か調べるうちに天下統一の為に結構大規模な構想で持っていたんだなって凄く見なおしたよ。
まあそんな苻堅もこれ以後悲惨な末路を辿るんだよな。王猛の忠告を聞かなかったばかりにorz


137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/10(日) 03:03:54 ID:VJpxI2Dj0
もし苻堅のようなお人よしが天下を取ることが出来たらその後の中国史は大きく変わっていたはず。

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/10(日) 03:32:20 ID:aAcxjDs60
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139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/10(日) 07:13:08 ID:5S9FiXtbO
>>137
王猛の逝去がもっと先で苻堅が民族融和をじっくりと時間を掛けて行って
東晋が楚か宋に簒奪されるまで待てば天下統一も夢ではなかったかも?


140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/10(日) 19:44:08 ID:965Y9fR30
符堅は三国志演義の劉備のモデル・・・・のような希ガス

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/11(月) 01:56:46 ID:9uj6hOLAO
>>136
苻堅がした行為は所謂、宋襄の仁ってやつだな・・・


それよりいい加減、三国志から離れろ!!

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/12(火) 03:50:13 ID:Z5PAQv2SO
慕容垂って皇帝になった後も70過ぎまで馬上で活躍してたなんて凄杉。
それと死去した時の遺言ってなんか武田信玄みたいだ。

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/13(水) 06:47:56 ID:FO7oDoxnO
一兵卒から伸し上がり晋に劉裕ありと言われた宋の武帝は
武功の大きさで言えば中国史上でも相当上位に位置付けられるはずだ!!

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/14(木) 06:53:50 ID:uD6c81xyO
劉裕は宋を建てるも三年で死去、文帝は元嘉の治と呼ばれる良政を敷くが少帝とかDOQなのが多いし・・

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/14(木) 09:40:21 ID:zKmH8myo0
>>142
七十一歳かな
圧巻は参合陂で、慕容宝と慕容徳が北魏に大敗すると、
なら、と自ら軍を率いて、北魏の都平城を陥しちゃうところ
帰還途中に上谷で没したけどね

垂の人生はドラマになるよね

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/15(金) 23:21:19 ID:XMCVuhiAO
慕容垂の死後、宝が即位するが国力の弱体化は明らかにやっぱり慕容垂がワンマン過ぎたせいかな?
北魏は後燕から広寧、上谷を獲得、山西省を領有、
東方でも常山を獲得するなど勢力を急激に拡大して
華北の勢力分布は大きく変わっていったんだよな。

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/16(土) 10:23:37 ID:wMh1ctW90
参合陂の戦での被害も甚大だったんじゃないかな
垂が一矢報いたけど、大勢は北魏側に流れていたんでしょう
併せて宝と子の会の争いが更に拍車をかけた

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/16(土) 12:57:44 ID:uh+hsJaj0
慕容垂は十六国後期最大の英雄だからなぁ。
あれだけの人間が死ねば、影響はでかすぎるだろうね

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/16(土) 15:05:12 ID:0CAcgwK50
慕容垂没後は内紛で勢力が失なわれていったのに対し
逆に北魏は崔宏ら漢人官僚を重用して内政の充実を図っていたし。
拓跋珪も皇帝に即位してからは
酒に溺れ、不老飲用し家臣らを些細なことで殺害するように・・・


150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/16(土) 22:22:15 ID:EYrIUidcO
後燕と北魏は直接、利害関係が生じるまではお互い
連帯して匈奴勢力や西燕と対立していたり、
頻繁に使節の交換を行っていたのにね。

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/18(月) 10:38:39 ID:ui3ADUf40
そこで慕容徳の評価はどうなんだろう?
なかなかの名将で、垂の片腕的な存在
内紛後南燕を建国するわけだけど

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/18(月) 23:09:57 ID:28VXUgzOO
慕容徳は後燕建国後車騎大将軍、笵陽王に復し、侍中、尚書令、司徒を歴任、
慕容宝のもとでは都督六州諸軍事、冀州牧に任じられのちに丞相になるなどかなり有能みたいだし、
南燕、建国後は北魏と東晋に挟まれ苦境にあったが
人材の登用に努め、塩鉄の生産をすすめ戸籍を整え国力の充実を図り富国にするなど、
君主としても有能かと思うな。
惜しいのは二代12年で国が滅んだことかな・・・

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/19(火) 00:04:04 ID:vcwecInF0
何だかんだ言って、慕容部最高の傑物は慕容恪だろう
段遼、冉閔を撃破して、桓温、王猛をして前燕侵攻を挫折させる武威の持ち主
(イメージ的には智将の姿が流布しているが、実際は猛将タイプだよなあ)
内紛を回避するため、ひたすら低姿勢を貫き通す思慮深さ
長生きしていたら、王猛や桓温と激突したんだろうか?

石虎の存在ってこの時期の人物達にどれだけ影響与えたんだろ?
慕容儁の石虎に対する憎悪は病気染みているほどだったが
一人の人物の死が、歴史を一気に動かした点では、稀有な人間だよな >>石虎

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 06:28:56 ID:Z/8ZCBfJO
>>153
慕容恪は臨機応変な奇策を得意としたし、苻堅も彼をはばかって攻めてこれなかったんだろ。
王猛としてもかなり苦戦しそうだな。
桓温は慕容恪の見込んだ慕容垂に負けてるし結果は同じじゃないかな?


石虎は軍を率いるのに優れ後趙が華北を広く征覇出来たのは彼の力が大きいが傍若無人だしな。
その石虎も死後、自分の子孫38人を冉閔に殺され、
その冉閔も石虎を憎む慕容儁に殺されるとはなんとも皮肉な話じゃない?


155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 09:22:58 ID:NQYObDJY0
どちらかというと、太子石邃の方が最初傍若無人なんだけどね
石虎はどちらかというと、止める立場だったが

それが石邃、石宣を殺して・・・

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 12:47:26 ID:0NOoHGRT0
昨日本屋に行って川勝義雄氏の魏晋南北朝買ったんだけどおもしろいね
諸兄の中で読まれた方この本はどうでした?

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 13:40:00 ID:Z/8ZCBfJO
>>155
別に石虎を誰かと比較したかった訳じゃないし…
〇〇と比べたらとか言うのなら、
南斉の六代目宝巻、東昏侯の方が目茶苦茶な人物だってなっちゃうし。

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 13:53:07 ID:NQYObDJY0
こちらも比較する気などさらさらないんですがね
ただ、石邃は酒色にふけり、臣下の妻妾を犯し、官女の首を切り・・・その他諸々
石虎の息子だからの部分もあるでしょうが

弟の石宣らが父に寵愛されることを恨み、挙句父をも恨み、
病気見舞いに来た父の使者である、女官を撃ち殺した

それでも親父の石虎は、石邃の側近を殺しただけで、息子を一度は許し、
なおも謝りもしなないので、仕方なく流刑後殺害

このあと石虎がおかしくなって行ったというのが、私の見解

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 20:14:39 ID:9v5IzMza0
>>156
ほとんど史料でしかみえない語句なんかを現代的に意訳されてるところが
妙に気になったというか嫌だった
内容自体は悪くないけど、同じとこからでてる古代中国や秦漢帝国の方が
読みやすいしよかったかも

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 20:26:53 ID:xuPb1F/a0
>>154
慕容恪→慕容垂の流れで順調に行けば良かったのにね
やはり慕容評が問題だ
こんな奸人を重用した日韋も問題だが


161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/21(木) 06:52:28 ID:363rSQsaO
石勒が劉邦の幕下で(韓信たちと)功を争いたい
と言ってたのって本当?
まあ石勒は高祖本記とか読んで聞かせて貰ってたし。

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/21(木) 14:23:46 ID:tmjadiZl0
>>161
諸臣との雑談で「自分が漢の高祖に出会ったら恐れ入って臣従する」と
言った関連だと思う。
石勒自身は文盲だったけど史書を読んで聞くのが趣味なほどの歴史好き。

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/21(木) 22:40:16 ID:363rSQsaO
>>162
へぇ〜そうなんだ。
石勒が劉邦の事に凄く関心を持ってたのは知ってたけど。
勉強家と言えば魏の曹孟徳が有名。
孫子の注釈をしたり、陣中でどんなに忙しい時でも夜に必ず読書していたほどだし。

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 00:16:48 ID:YEdYqf4UO
その曹操を取るに足らないと評したのが石勒。

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 00:36:37 ID:SC0EkKwt0
魏晋南北朝の5覇を挙げるとしたら?
曹操
劉淵
石勒
符堅
劉裕 って感じ?

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 00:48:27 ID:1Jm1WEbW0
符堅
慕容垂
劉裕
蕭衍
宇文泰

実際に帝位についた初代という条件ならこの五名だと思う
つーか三国と十六国の前半・後半と南北朝で時代が隔絶してるだろ

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 01:00:22 ID:YEdYqf4UO
宇文泰は曹操と同じように、実質上の建国者ではあるけど帝位には就いてないけどね。

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 01:34:56 ID:1Jm1WEbW0
そうだった
先にめぼしいの上げたら多すぎたんで削ったら残ってしまった
高洋とか宇文ヨウとかも覇者といっても問題なさそうだけど

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 01:39:36 ID:RShMVg6LO
>>116
劉裕、蕭衍が入るなら蕭道成が入ってもいいのでは?初代で帝位に就いているし。

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 02:05:25 ID:1Jm1WEbW0
でも劉裕に比べて武功で劣るだろ>南斉太祖
梁武はその治世においては南朝最盛期な訳だし(最後グダグダだが

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 22:14:31 ID:5qIdXbRb0
魏晋南北朝の五覇ねえ

曹操(対抗:劉備、孫権)
石勒(対抗:劉曜)
苻堅(対抗:桓温、慕容垂)
劉裕(対抗:桓玄、赫連勃勃、拓跋珪)
拓跋珪(対抗:慕容垂、赫連勃勃)

個人的には、こうなるな
苻堅に関しては、同時代の桓温、慕容垂も覇者の資格を持ってるから、評価が難しい
宇文泰、高歓の両名は仲良く喧嘩しすぎだ、決定力不足と言うべきか

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 22:45:53 ID:WydQLi5f0
慕容垂より石勒の方が覇者と呼ぶにふさわしいと思うんだが。
結局のところ、慕容垂は後秦と華北を分けあって終わったわけで。
帝位につくまでの難易度も、徒手空拳の石勒と前燕の余録があった
慕容垂とでは、かなり違うんじゃないの?

宇文泰と高歓なら、前者の方が優秀だと思う。
東魏が北魏の豪族・官僚をゴッソリと継承したのに対し、西魏は十分の一か
そこらの人間しか集まらなかったし。
例1:禁軍15万の内、孝武帝の出関に付き合ったのは一部隊1万5千のみ。
例2:東魏(というか高歓)は、衆百万と号された葛栄の遺衆をそっくり吸収した。
例3:爾朱榮の旧部下、精兵の大半が高歓の配下になった。
例4:西魏の軍は賀抜岳の兵四、五万だけが元々の中核。人口不足は北周期にも
   改善されず、北斉侵攻時の総兵力も八万にすぎない。
…これだけ差があって互角に戦ってしまった高歓を、覇者として単純に認められるかと
いうと、個人的には疑問符が。

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/23(土) 02:59:55 ID:JKGjSVg+0
>>171
その時代の唯一の統一者司馬炎がそいつらに劣る件w

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/23(土) 05:07:51 ID:7b9vUZzqO
そんなに高歓は宇文泰より見劣りするの?
『財物、あに常には守るべけんや。』と言葉からして先見の明があり、
のちに北魏の実権を握り北斉の始祖となる訳だし
人物としてはなかなか思うのだが。

北斉の皇帝は後主と廃帝殷を除いて戦争には強いが酒乱で暴虐だよな。
高歓も酒癖悪いし遺伝のせいか?

司馬炎についてはまた後程述べさせてもらうよ。

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/23(土) 08:06:46 ID:8k49TM0w0
>『財物、あに常には守るべけんや。』と言葉からして先見の明があり、
その言葉が先見の明に当たるだろうか?
この時代、
「義を重んじ財を軽んじ、施すを好み士を愛す」
という類似の表現を使われる人物が相当数出ているのだが…。

高歓のピークは爾朱一族を滅亡に追いこんだときじゃないか?
これにしても、賀抜岳が西部戦線を担当してくれなければ危なかった
(だから高歓は賀抜岳を警戒して暗殺させた)わけだが。
ただ、北魏の実権を握るに至った将帥・政略家としての手腕は高く
評価されるべきだと思う。
問題はそれ以後、六鎮の乱を起こした原因でもある貴族と下級士族の
対立状況を解消できなかった点か?
北斉の「権貴VSたたき上げの将帥」の構造にそっくり引き継がれて、
滅亡の一因になってしまったのは…。

西魏は西を吐谷渾、北を突厥、東を東魏、南を梁に包囲された状況で、
しかも梁にはドサクサで漢中まで奪われてる至弱の国家だったことを
加味すると、ここから天下統一の礎を築いていった宇文泰の能力は、
相当傑出してると思われるが。

176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/23(土) 10:04:47 ID:aMYtfZZl0
>>173
司馬炎は統一してるから覇者の範疇に入らないからな

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/23(土) 22:59:57 ID:7b9vUZzqO
>>175
貴殿ほどの博学さならご存じかと思いますが?
高歓が件の言葉を吐いた経緯と以後の行動を。

北魏の辺境に土着していた高歓は伝書使となってたびたび都に上がっていたが、
あるとき、都で将軍が暴徒に殺されるのを目撃した。彼は帰宅すると、
財産を処分して徒党を集めはじめた時人に訳を聞かれて、
都の様子と、それに対し朝廷は対処できないと説明して件の言葉をいったんだよな。
もし高歓がこの時、家産を守ることに汲々としてたら
よくて地方の豪族で終っていたはず。
先見の明があるとはそう言う意味で言ったのだが・・・


178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 05:54:54 ID:RnFVLzZc0
横槍申し訳ないが、ちょうど今話題にあがってる高歓及び北斉に興味があるんだけど
なにで知識得ればいいんだろう?
概説書はもってるんだけど人物に対しての記載が少なくて・・・
この時代でお勧めの本とかってあります?

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 07:04:33 ID:74mzZPwW0

ttp://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3?ukey=1032519681&tdb=%A4G%A4Q%A4%AD%A5v

180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 08:26:31 ID:Ukac4nCM0
>>179
URLを直接入れても見れないよ。

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 14:26:38 ID:iFne1KEJO
>>173>>176
司馬炎は統一王朝の皇帝とは言っても
彼自身はただ祖父の司馬懿、父の昭、伯父の師がお膳立てしてくれたのを受け継いだだけだろ?
炎は奢侈で淫行、後宮には一万人以上の女性を入れていたぐらいだし。
所詮、呉の孫晧と変わり無いDQNだろ?

陳舜臣氏が小説十八史略の中で
司馬家には放蕩の血が流れているようで
不遇のときは英明だが権力を手にすると酒色にふけると述べているし。

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 16:46:17 ID:RJALO4bK0
>>181
司馬炎はただのスケベ親父ではないぞ。
安田二郎「西晋武帝好色攷」(『六朝政治史の研究』所収)を読むべし。

183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 18:24:17 ID:dC9KgvnS0
司馬炎は、政策自体はそれほど悪いものではないのだが(むしろ政治的には名君の資質あり)
各局面における政治的判断がことごとく裏目に出ているのが、今の評価につながってると思う

まあ、東晋見ていても暗君が多いと思うよ
しかし、もし名君が輩出されていたら、東晋朝廷は比較的早い時期に瓦解していた線が濃厚
あの日本の天皇制のような、政治的最高権力者不在の状態が、東晋の魅力であり
強みであったからな

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 20:52:35 ID:RnFVLzZc0
>>179
ごめん、よくわからないんだが・・・
どういうページなんですか?

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 21:44:27 ID:b3rEGeoN0
北史を直接嫁と言いたいらしい

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/25(月) 21:57:54 ID:WWeFvGqaO
>>178
本では無いけどこんなのどう?

http://mobile.seisyun.net/cgi/wgate/%E9%AB%98%E6%AD%93/a
http://www.geocities.jp/historyscholajp/hokuseiteikiframe04.htm#神武帝

187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/26(火) 05:15:59 ID:LPzmSXRQO
司馬炎はただのスケベ親父ではなく水商売の世界に一石を投じたんだろ?

冗談はさておき、
司馬炎の政策って占田・課田制や九品官人法はともかく
魏の失敗を教訓にして皇族を優遇し、土地と軍権を与えたことは
逆に皇族間の争いを誘発する結果に、八王の乱の遠因にもなった訳だし。
高官に対して賄賂や、異民族に対し何も対策をしなかったこと、
挙げ句の果ては昏愚な司馬衷を皇太子とするなど
やってることに英明さがあるとはとても思えないが・・・

>あの日本の天皇制のような、政治的最高権力者不在の状態って、いつの時代?
仮に東晋を日本風に例えるなら鎌倉期の北条執権政治か
徳川幕府に置ける老中合議制に近い状態ではというなら話はわかるけど・・・


188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/26(火) 05:51:25 ID:8h8x2SRq0
>>186
すまん、一応検索とかはしてるからどっちも知ってるページだった
わざわざありがとな
この時代の逸話とか細かな人物関係知るにはやっぱ北史嫁ってことか・・・
中文は読めないんだよなorz

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/26(火) 07:46:57 ID:LPzmSXRQO
>>188
余計なお世話かもしれませんが図書館とかに
二十二史全巻の注釈付き本とか置いて無いのかな?
自分の住んでるとこの図書館には置いてたよ。


190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/26(火) 11:07:55 ID:SCs89xhu0
司馬炎は魏の失敗を教訓にして、皇族に軍権を与えたわけではないですよ。
皇族たちは元々洛陽に住んでいたけれど、文欽とか諸葛誕とか辺境での
叛乱が多く続いたため、血縁のない有力武将に重要拠点を任せるのでなく、
皇族に任せることにしたという話で。
封地はあっても赴任していなかった皇族達は、すすり泣いて嫌がったと
いうことです。
この辺の事情については、誰かの列伝ではなく「晋書・職官志」に記されて
いるため、マイナーな情報なのかもしれません。

それと、異民族対策についてですが、これは「異民族排除・抑圧」という
考え自体が、当時すでにナンセンスなものと化していたのではないでしょうか。
晋書の匈奴伝では、太原の匈奴と漢人の生活上の混淆が進んでいたことが
記されています。
太原王氏の領袖である王渾が、呉征伐に劉淵を推したりしたのは、おそらく
そういう背景があったからでしょう。

司馬炎が無能というよりは、その施策を継承し修正してゆくはずの後継者達に、
政権担当者としての明確なビジョンが無かったこと、ビジョンのある者がいても
実権を持てなかったことが、八王の乱を引き起こす原因となったのでは
ないでしょうか。

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/27(水) 01:50:08 ID:fLs+pcZj0
>皇族たちは元々洛陽に住んでいたけれど、文欽とか諸葛誕とか辺境での
>叛乱が多く続いたため、血縁のない有力武将に重要拠点を任せるのでなく、
>皇族に任せることにしたという話で。

それは楊珧と荀勖による、斉王攸を朝廷から排除するための論理構成だね。
職官志のその段をよく読むと分かるよ。これを根拠に

>魏の失敗を教訓にして、皇族に軍権を与えたわけではないですよ

と言い切るのはいかがなものかな。


>「異民族排除・抑圧」という 考え自体が、当時すでにナンセンスなものと化していた

その根拠が異民族の漢化にあるというのであれば、全ての異民族が南匈奴なみに漢化
していたわけではないはずだけどねえ。
同じく匈奴伝の載せる郭欽の上疏や、江統伝の載せる『徙戎論』については?

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/27(水) 02:44:52 ID:1PRMy2t9O
>>190
なるほど、詳しい解説有難うごさいます。
確かに司馬炎はその政策を継承し修正してゆくはずの後継者選びに失敗した感じはしますね。
本当は弟の斉王司馬攸を皇太子弟として位を継がせようとしたのですが
孫の司馬イツが利口なので孫に望みを託して司馬衷を皇太子としたのが真相みたいですね。
ご指摘通り政権担当者としての明確なビジョンが無かったこと、ビジョンのある者がいても
実権を持てなかったことも、確かに事実ですし。

あと質門なのですが
即位後まもなく晋朝成立の歴史を左右から初めて聞き、
「そんな成り立ちの国が長く続くはずがない」と
涙を流した帝って誰ですか?


193 :犬童知遠 ◆tmc8JAPANo :2006/12/27(水) 04:26:41 ID:zZduttc70
>>192
東晋の明帝司馬紹。『世説新語』の尤悔篇にあるエピソード。

【原文】
王導、温嶠倶見明帝。帝問温前世所以得天下之由,温未答。
頃,王曰:「温嶠年少未諳,臣爲陛下陳之。」
王迺具敍宣王創業之始,誅夷名族,寵樹同己,及文王之末,高貴郷公事。
明帝聞之,覆面箸牀曰:「若如公言,祚安得長!」

【訳】
王導と温嶠が連れ立って明帝に謁見した時、帝は温嶠に
先祖が天下を取れた理由を尋ねたが、温嶠は答えられずにいた。

しばらくして王導が、「温嶠は若輩者ゆえ子細を存じ上げませぬ。
私めから陛下にお答え申し上げましょう」と言った。
そこで、宣王(司馬懿)が創業の初めに、名族を誅滅して己の与党を引き立てたこと、
さらに、文王(司馬昭)の末には高貴郷公を弑殺したことについて、詳細に述べ立てた。

明帝はこれを聞くと、顔を覆い、ソファーに身を突っ伏して言った。
「もし貴公の言うとおりならば、この王統もどうして長続きできようか!」

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/28(木) 23:13:03 ID:gHgeeWPxO
>>193
遅くなりましたが原文、和訳付の親切なレス感謝です。
王導といえば東晋の元帝、明帝、成帝と三代に仕えた宰相で
融和政策をとり、東晋の基礎を固めたといわれる人物。
彼は気取らず、また寛大な人物だった様で次のようなエピソードが
ある席で王導が何か言うたびにに
同座していた人々が褒めそやし、お追従のかぎりをつくすので
その席にいた王述が一同のお追従を聞いているうちに我慢できなくなり
人、堯舜にあらず、なんぞ毎事善を尽くすを得ん。
(堯・舜のような聖人ならともかくとして、
すべてのことについて完全な人間などいるはずはありません)
自分が登用し、目をかけてやった者にこれだけ水を差されたにもかかわらず、
王導はうなずいて、王述の苦言に感謝したのだった。

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/28(木) 23:45:52 ID:mlOO4O9J0
犬童コテが東洋英雄を語るのにはちょっと驚いたわ

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/30(土) 00:56:29 ID:i2+ksOwN0
>>187
司馬炎の時代九品官人法はもう形骸化が激しくて
有能だか出自が低い人物には足かせになってる


197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/30(土) 03:23:06 ID:IAbxbp+4O
高歓みたいに情勢を察知して行動を起こし、
後に権力者になった人物って前涼の張軌もそうじゃない?
(張軌はやむえず独立したのだが)
散騎常侍としてエリートコースを進んでいたのに、八王の乱の激化を予見して、
わざわざ辺境の地の長官である、涼州刺史を志願したんだし。


198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/31(日) 04:10:30 ID:acbD+iobO
前涼といえば5代目、張重華に仕えた謝艾ってなかなかの名将だよな。
謝艾は前涼の主簿であったが、大抜擢を受けて中塁将軍にのぼり
後趙の涼州侵攻を幾度と無く撃退しているし。
書生風の格好で戦場指揮を取っていたため、
敵将から過分に罵られることもあったみたいだけど、
石虎に「中原の総力を注いで、謝艾のいる一城を落とせないとはッ!」
と歎息させたほどの人物。

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/03(水) 22:30:48 ID:AiH33f2vO
梁の武帝は優秀な能力と安定した人格で
梁朝の繁栄に大きな影響を与えたのは確かだが
在位が50年にも及んだ為、後半の治世は皇帝の老害によって
国政が乱れたのは否めない。
もし昭明太子が早死にしなければ、梁が華北を平定する可能性はあったのだろうか?

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/03(水) 22:47:09 ID:hzmG0o490
>>199
昭明太子は治の人だから、仮に皇帝となったとしても、
梁の繁栄を長引かせることは出来ても、
華北を征服することは出来ないんじゃないかなあ。

201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/04(木) 11:34:40 ID:+JuhCsd10
正直、華北の平定は無理だったと思う。南朝の全てに言えることだけど。
華北には鮮卑・匈奴・氐・漢人その他の間の「民族問題」というものが
あるわけで、それを巧くさばく政治制度や理念が南朝にあるかというと…。
たとえできたとしても、短期間で崩壊したんじゃないかなぁ。
後趙や前秦の統一が、石虎の死後や苻堅の晩年に瓦解したように。


202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/04(木) 23:06:46 ID:E57e1IaHO
>>201
>後趙や前秦の統一が‥‥
構想が瓦解したのは石虎の場合は後継者問題が
苻堅は事を急ぎ過ぎたのと人が良すぎた、
王猛の死去などが原因じゃないかな?

東晋は亡命政権な上、土豪との軋轢を解消しきれてなかったり諸問題があるし、
その後の王朝も後継者争いが起るか、優れた君主が現れても早死、又は文化に傾倒するからなぁ。
(初代は比較的マシなのだか‥‥)
それと華南という豊かな土地柄のせいなのかそれに甘んじてしまい、
征服欲が薄いと思うが自分の見解。

宋の劉裕なら統一後を体制維持できそうだが、どうだろう?

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 00:03:34 ID:x4kaNcea0
宋だけifを持ち込んでもな…

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 02:12:50 ID:OT6ivLFP0
わたしは中国人で〜す。
日本語はまだまだで〜す。
よろしくおねがいしま〜す。
3〜Q〜す。
^^

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 23:29:46 ID:ne0XULCqO
質問だけど司馬炎って名宰相か?

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 21:16:23 ID:DPNbxxO50
宰相っていうか相国の地位にいたのは四ヶ月程度じゃないか?

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 22:33:06 ID:Q+HGjlJ8O
>>206 サンクス
司馬炎が禅譲の形式段階で相国になっただけだろとは思ってたけど、
他で司馬炎が名宰相みたいなこと言ってたから不思議に思った訳。
実際どうなんだろと疑問があったから意見を伺ってみたんだ。

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 22:53:57 ID:sl6cnp3K0
>>207
あのスレに書き込んだのは俺だが
司馬炎が相国(あるいは魏臣)時代に、目立つような政治的功績がなかったこと
帝位に就いた後に、様々な政策を次々に打ち出したことを比較して
「政治家として功績を残したのは皇帝になってから」という文脈で
司馬炎をあのスレで微妙な名相→皇帝の一例に挙げただけだ
確かに例に挙げるまでも無く、名臣じゃあないわけだが→司馬炎

両晋の名臣と言ったら、王導が筆頭に来るのかねえ
(個人的には杜預が一押しなんだが)

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 10:47:56 ID:wZbPE9qNO
杜預はどちらかと言えば名将、左伝の研究をした学者としてのイメージの方が強いな。
司馬炎の大将軍として呉を平定、三国時代を終結させた人物で、なんと言っても
破竹の勢いの故事が有名だしな。

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 08:31:59 ID:20UYazvH0
羊祜の下準備を忘れないでください・゚・(ノД`;)・゚・
この人の徳治なしに、呉征服は語れないと思うのですよ。
司馬炎も、涙を流して
「これ(呉征服)は羊太傅の功である」
と言ってくれたんだし…。

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 08:40:11 ID:x6hEmllE0
杜預って「親父が曹髦誅殺に関わってたから
左伝のなかでそれを弁護している」、なんてどこかの本で読んだがこれはトンデモなのだろうか。

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 11:27:19 ID:DXfOL84EO
杜預って確か自分の身体的特徴を馬鹿にされたのに腹を立てて住民虐殺を行ったことがあったよね?

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 12:26:25 ID:p/BiKUVF0
確か、杜預には首に瘤があったのを、どこかの城の住民が瘤のある木に
「杜預の首(瘤だっけ?)」と書いた札を下げたって奴でしょ?
で、それに腹を立てて城民虐殺。

正直、杜預ってあんまり上司にはしたくないタイプだと思った。
呉を征服するときの上表文も、わざわざ最初に
「羊コは時宜を得ることができませんでしたが云々」
ってところが、
「成功したら羊コの手柄なんか無いもんね!おれの手柄だもんね!」
みたいに読めて…。
蜀から帰還する衛カンに「彼の終わりはよくないだろう」と予言したけど、
杜預自身、そう言えるほど清廉ではないという印象が…。

214 :208:2007/01/08(月) 20:01:38 ID:lXHHBP+20
杜預は確かに自分の才覚を鼻にかけてるきらいはあるが、それを補って余りある実務能力を持っているから、
「何でもある」って言う意味で「武庫」って綽名されてたほどだし
官僚、政治家、軍人、文人として全ての面で成功を収めている、確かに厭味なヤツだ
(政治家としては、最後に政敵連中に敗北してるけど)

衛カンを悪く言うのは仕方がないっちゃあ仕方がないことだし

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 22:10:58 ID:/mQ1WrzGO
>>210
別に羊コを疎かにしてる訳ではw
病気で倒れた羊コが杜預を後任に推挙したり
病弱な陸抗に薬を送ったエピソードには彼の器の大きさを感じるね。
(陸抗も酒を送っているし、こいつもなかなか器がデカイ)

>>214
確かに呉平定の功労者は杜預なのに
政治権力闘争では賈充、馮タン、荀 の勝ちになっちゃってるなorz

司馬炎ってかなり乗せられ易い人なの?


216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 22:53:42 ID:3V4tABZ70
乗せられ易いというが・・・・
司馬炎は典型的な暗君のような

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 05:52:58 ID:xTG4DJizO
>>216
司馬炎を暗君扱いするとそうじゃないってレスが返ってくるが・・・
前の方のレス読んだ?

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 17:41:28 ID:F3jU51Z20
両晋の名臣に張華を推しては駄目ですか?
張軌に劉弘に陶侃に陸機に陸雲に劉聡に慕容カイにその他諸々、民族関係なしに
見こんだ人物を推薦しまくった(しかもことごとく名をなした)辺り、人物鑑識の能力が
神の領域に入っているような…。
知識人としては子産にたとえられたこと、裴頠と一緒に元康年間の小康を支えたこと、
それも含めて凄い人だなぁ、と思うのです。
寒門でさえなければ、西晋のあり方がもうちょっと変わったかも…って、過大評価ですか?

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 23:16:04 ID:xTG4DJizO
>>218
その張華が推薦した東晋の陶侃の評価はどうなの?
五十年にわたって地方長官、軍司令官などを務め東晋の柱石であっただけでなく、
謹厳、実直な人物で知られている。
貧家の生まれで、たまたま同郷の人が官途につくため都に行く途中、
彼の家に泊まった時、母親が髪を切り酒食をととのえ遇したのが
きっかけで陶侃は世に出る糸口になったんだろ。
正にこの母にしてこの子ありって感じがするね。
いかにも彼らしいエピソードも多数有るし。

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